なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ネットで生き延びるためには鈍感力や無神経さを引き延ばすしか無いの?

この「傷つきやすさ」は単に個人的な感情というだけではなく、社会的な条件のなかで構築され、人々に内面化されていくものでもある。

(であるにも関わらず)

人が抱える「傷つきやすさ」は原則としてその人の個人的問題であり、したがって「自己責任」で克服しなければならないという価値規範が大きな影響力をもっている

http://synodos.jp/society/5846

ネットのある場所ではとある記事をきっかけにして(※記事自体はただの笑い話)傷つきやすい人と横暴なひととを区別無く大雑把にひとくくりにして「繊細チンピラ」といって笑いものにして抑圧する流れが強くなったり、「図太くなれ」「メタ的に上に立て」「細かいことは気にするな」系のアドバイスがしょっちゅう人気になったりして、私としてはウツウツします。


私は「いわゆる繊細チンピラという藁人形的イメージで象徴されるもの」との親和性が高い。というか、内面的には完全に繊細チンピラだと思う。その自覚があるし、そういうものが他の人に受け入れられるとは思わないから普段はあまり表に出せないけれど、せめてこういう場所ではぶつぶつ文句いってもいいかな。


「傷付きやすい」とかそれ自体がいけないことではないと思うんだけどな。駄目なのかな。ネットではそういう人間は生きていけないんかな、何も語るべきではないんかな。違うと思うんだけどな。こういう人間でも生きていける冴えたやり方があると思うんだけどな。


【建前】
どうもネットが「1億総クリエイター時代」の錯覚を生み出してるからなのかな。 ネットで何かを発信するということは、新しい情報を創造しているのと同じことであり、誰もがクリエイターの自覚を持って行動しろや的な変な圧力を感じることがたまにある。

発信するならガタガタするな、腹をくくれ、それが出来ないならネットで発信何かするんじゃねぇ。お前だってネットで発信してる以上クリエイターの端くれだろ、みたいな。


http://picup.omocoro.jp/?eid=1771

これなんかも、悪口に対しては直で反応するのではなくて、よりメタな視線にたって上から見下すのが良いという理屈。長ったらしいけど要するに「スルー力鍛えろ」って話。


個人的にはかなり違和感がある。違和感というか、これ完全に上級者とかプロの考え方だな、と。もっといえばマッチョンチョンだね、と。これ一般化すると、適応出来ない人はウィンプですか、と。完全に繊細チンピラ的ないちゃもんを付けたい気分になります。


「悪口」というよりは「事実と違う(少なくとも自分の認識では)ことを垂れ流されること」や「事実誤認の拡散」が不愉快なのではないかと思った。 「影響力が皆無の個人的感情としての悪口だけ」ならなー。 結局「リスク管理」の感覚が安定してくるまでは気にならざるをえないような。

「こういう悪口だったら、たいして影響ないし、自分にとって大きな問題ではないから言わせておいても大丈夫」「少なくとも自分として対応する必要はない」逆に言えば、「こういう時は対応しなければいけないから、こういう時だけ対応しよう」「自分にとって大事なのはここだ」がわかれば少しは安心?

そうやって、「リソースの配分を考える」とか「優先度の高いものを優先する」とか「レベルが合わない人とはケンカそのものができない」みたいなのが当然だと思うことさえできればいちいちこういう屁理屈いらなくなると思う。

でも、そういうのって「慣れ」の問題じゃないかと思う。世の中にどんな人間がいるのかもわからない、自分の発言がどこまで届くかコントロール出来ない、リスクもわからない、そんな状態で不安だとか、怖いとか、そういう感情とどう向き合うかという話って、ステージごとに考え方って変わってくるものじゃないかな、と。

大量に反応が来て、そのなかにアンチが交じるのが当たり前になっている人ってそうそう要るわけじゃないと思う。そういう状況で、それでも多くのひとに向けて発信したい人(というかぶっちゃけ「商売の為に芸やってる人」)の理屈と、ぼんやりとブログやツイッターを書いている人の理屈では、前提から全く異なっているはずだ。

そういうネットへの「段階的な慣れ」とか「ステージの違い」のを無視して「このくらい図太くないとネットできねーぞ!」みたいな話をされると、なんかネットってハードル高いな―って感じる。



ネットってものすごくグラデーションがあるはずだし、「クリエイターワナビー」だけではない。むしろそういう意識のある人少ないわけで、そういう人たちがむしろ「繊細さ」や「神経細いところ」を発揮してもいいと思う。問題は、その表現の仕方だろう。

繊細な人間や、神経が細い人間は、それを自覚して、それと上手く付き合っていくためにどうするかを知りたい。自分を殺して、自分を否定して、図太くなることだけが正解ではないだろう。


「クリエイター様」におかれましては、どうせ上から目線でかたるなら、そういう話を語って欲しい、それを語る手間を惜しむあまり内面に干渉するのは違うだろう。そういう話がしたいなら自己啓発書の書評サイトでもやっていればいい。自分を変えたいと思ったら勝手にソッチのほうに行きますよ。

そう感じざるをえない人に「お前の感じ方考え方それ自体が不毛」「文句があるなら眼と耳と鼻と口つぐんで静かに消えろ」といってるようなものである。傲慢であるだけではなく怠慢である。そんな人相手に共感もくそもない。


この「傷つきやすさ」は構造化されたマイノリティ‐マジョリティ関係に由来しており、個人の意思や努力では完全に克服できない。レイシズムヘイトスピーチとはまさに、こうした自己責任に帰すことのできない「傷つきやすさ」に対する攻撃であり、それゆえそれは単なる誹謗中傷よりもいっそう深刻に他者の尊厳を否定する。その標的となったマイノリティ個々人は深く傷つけられ、自信を喪失し、ときにはトラウマを抱えることもあ

このあたり、マイノリティ-マジョリティとはちょっと違うけど、親と子どもや、上司と部下など、権力が非対称の関係でも似たようなものが起こっているような気がする。

すべてが自己責任なら、まぁ一人で生き延びられるよう鈍感力や無神経さという体力を鍛えるべきって話になるんだろうけど、だとすると、自己責任に帰すことができない理由で傷つきやすくなっちゃった人は、ネットでは生きていけないのかな。

こういう人が、図太くなる以外に、知恵だとか表現の練習とか、別の方向性で生きることができるといいなと感じる。差別する人や、むやみやたらな中傷をする人も、アダルトチルドレン的ななにかがあったのかもしれない。まぁだからといって差別するのが良いというわけではないが、なんかもうちょっとなんとかならんのだろうか、というウツウツ感が残る。



【ホンネ】
セブ山さんのきじはねただとおもうけどまじめにいってるならかなりきにいらない。

だって。これ…ハックル論法ですやーん!

「俺の意見はまっとうな分析であり批評であり人間観察だが、相手の意見は悪口で誹謗で中傷であるただし判断基準は俺の感覚、なハックル論法」ですやーん!

「気に入らない相手がいるからといって、内心を忖度して、レッテルを貼って、その人の評価を貶め、相対的に自分が上であると言い張るハックル論法」ですやーん!

「人の悪口言うな」って言いながらセブ山さんも人の悪口言ってますやーん!むしろしかも人の内面勝手に決めつける形で晒してますやーん!相手の悪口よりセブ山さんのほうが百倍タチ悪いですやーん!

せめてハックル論法を使うなら、まず頭を丸めるか、もっと道化に徹してください。髪の毛ふさふさでかつ真顔のままハックル論法を使っていいと思ってるんですか。

小野ほりでぃさんみたいなネタとわかる芸風ならともかく、いつものセブ山スタイルならともかく。真顔でハックル論法とか。何考えてるんだ、バーカ!

……っていうツッコミ待ちのネタ(いわゆる「釣り」記事)として扱うことにします。いやマジでセブ山さんの記事は本気で悪趣味だと思ってますのでそこのところはよろしくお願いします。

まぁ結局何が言いたいかというと、ハックルさんのいなくなったはてなはやはりさびしいなーという記事でした。