過去の自分を供養する 記憶の中の親を殺す
http://kijosoku.com/archives/31517373.html
読んでてつらかった。
子供にとって酷い親を許す(形式的にでも)ってのは自分の人生を救うためにも必要な事なのよ。
人を憎み続けて生きていくのは大変よ。許してほんで距離を取るのが一番子供の為
わかる、わかるよ。
私だって罪悪感や劣等感や自己嫌悪から自由になりたい。
けど、自力では無理。少なくとも私には。
人を許すために絶対に必要なことがあると思う。「その時傷ついていた自分がいたこと」を誰かに認めてもらうこと、可能であれば、いやしてもらうこと、勉強なりなんなりして少しでも傷の痛みを和らげることだ。
それが出来ない限り、無理。少なくとも私には。
いくら親を叩いても、親が頭を下げても、親が間違いを認めても、その時の傷は消えない。
むしろ親が頭を下げれば下げるほど怒りが増すだろうと思う。
求めているのは、ただ傷ついてたことを認めてもらうことだけだ。
その時の自分に、誰でも良いから気付いて欲しかったのだ。
それすらなしに、自分からも手放してしまったら、その時耐えて生き延びて今の自分までつないでくれたその時の子供の自分に申しわけがたたないという気分になってしまう。
だから、上の記事は、やはり傷つけられた姉が書いたものかな、と思うことにする。
むしろ、こういう方法があったのだな、と思った。
要するに、誰かに伝えればいいのだ。
ある時に、傷ついていた子供がいたってことを。
今更ながらでも、素直にはき出せばいいのかもしれない。
私は増田をずっとやってて、いろんな負の感情をネットにをはき出してきたけれど、親に対する気持ちは匿名でも今まで書こうと思ってもかけなかった。
それだけは書いてはいけないと思っていた。そういうのを延々書き続けている某Y氏のことを嫌悪していた。
でも、書いてもいいのかもしれない。
「シュウがもうすぐ死んじゃう」というのは、作品の疎外そのものである。小説は修一に対立し、支配せんばかりの自立をとげている。しかし、それは作品として成功しているということでもある。
書くという行為に人生が救われる、ということは、ぼく自身の思いでもある。疎外を味わうことは、文章を書く人間にとって、決して嫌なことではない。そして自分に対立してくるものが描けなくてはおよそ成功しているとは言えない。
小説を書くという行為に支えられて、新しい時代を始めていくのである。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130902/1378051706
こんな前向きな書き方ができれば理想だろう。とはいえ、私が何か書くとしたら「過去の自分を供養し、記憶の中の親を殺す」という後ろ向きな目的になってしまうんだろうな。
まぁ、自分らしくていいかもしれない。 私は基本的に情動が乏しいとかぼんやりしすぎているとか生きる意欲が欠けているとかよく人に言われてしまうし、その通りだと思う。 一方で特定のことばや行為については激しく嫌悪を感じ、絶対に許すまいと執念を燃やす。 私を私たらしめてるのはどこかというと、結局そういう部分かもしれない。それならそういうものを書くしかない。それしか書けない。
とはいえ、書き方や書く物はやはり考えないといけない。
最初上の記事を読んだとき、ついかっとなって、4時間くらいかけてものすごい長文で親に対する恨み辛みを書いていた。15000字くらいまできたところで昼間から涙が止まらないわ腹が痛くなるわ頭痛がするわでこれはヤバイと思って中断した。
この形では無理だ。耐えられない。少なくとも私には。
怒りとしてはき出すのではなく、もうちょっと違った形ではき出し方を考えたい。
上の記事と同じような展開の話だということなので、読んでみようと思う
実を言うと、こういう言い分もわかる。
共働きで姉妹そろって大学まで行かせた親がクズ親?ガキ過ぎる。感謝こそすれ、恨むなんてお門違い。どうせ分からないだろうから、親になれば分かるよ、と言っておく。
理解はできるが納得できない。