かつてマッチョウィンプ論争という戦いがあった
古の昔、 力こそがすべてであり、 鋼の教えと闇を司る魔が支配する ゼテギネアと呼ばれる時代があった
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20131208-00030458/
その再燃の兆しを感じなくもない素敵エントリ。
ウィンプ「今から不幸自慢という自分語りをします。黙って聞け。」
http://webkit.seesaa.net/article/129745858.html
おめでとうございます。ホッテントリ入りです。
マッチョ「何で自ら行動しないの?バカなの?要は、勇気がないんでしょ?」
おめでとうございます。ホッテントリ入りです。
ウィンプ「上から目線!上から目線!死ねばいいのに!!」
おめでとうございます。ホッテントリ入りです。
マッチョ「要は、勇気がないんでしょ?」
おめでとうございます。ホッテントリ入りです。
以下繰り返し
もうこの時代に戻るのは嫌だ。おらそんな村嫌だ。
マッチョがいいのかウィンプがいいのか、そのこと自体はどうでもいい。どちらにも生存戦略はある。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51726517.html
ただ、自分がどちらなのかは知っておいた方がいいと思う。
移動力のないマッチョと忍耐力のないウィンプが生き残るのは難しすぎるのだから。
移動力のないマッチョがはてな民で、忍耐力のないウィンプなのだろうか。
それとも、最後まで生き残るウィンプたちが今のはてな民なのだろうか。
だとしたら、もはや今のセカイは袋小路なのだろうか。
この二分法のセカイには「フラジャイル」という概念は存在しないのだろうか。
新しい存在は誕生しないのだろうか。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51010743.html
自分の痛みは、結局のところ自分にしかわからない。いや、自分ですら全てわかっているとはいえない。それを他人に何とかしてもらうとしてもらっている時点であなたは袋小路に入っている。
報われるのをただ待ち続けて、待ちぼうけを食らった事を嘆いても、何も起きない。それを街角で叫んでも、せいぜい空き缶の小銭が増えるだけ、はてダで書いてもスターと同情コメントが集まるだけ。
それでいいなら、私は何も言わない。
待ちぼうけがいやなら、待っていてはいけない。「小市民としての幸福を全うできるような」世の中なんて。「マッチョじゃなくてもそこそこ幸せに生きていける社会」なんて。
それはマッチョになってから考えればいい。ウィンプ(wimp; machoの反対)なままで幸せになろうなんて虫がよすぎる。そう言ったのは、マッチョでなくてウィンプたちなのだ。そこそこの幸せのために譲らず、お互いの足を引っ張り合っているのはウィンプたちである以上、そう結論せざるを得ない。
これだけは確か。
じっとしてても、ウィンプのまま。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51726517.html
最後に勝つのはウィンプ -- 最後まで待てるのなら
マッチョどおしの争いはエスカレートする。マッチョポンプだ(笑)。しかしそうしているうちに、マッチョネスは「もうおなかいっぱい」の段階に達し、マッチョは亡びる。
そうしてマッチョが開墾した地にウィンプの花が咲く。
ただ、待てばよろしい。