教養とは何か、学校の勉強とは何の役に立つのか
そもそも教養とはなんぞや。
http://www.yokohama-cu.ac.jp/core/outline/culture1.html
・教養とは自分を知ること
・教養とは「ピースミール*1に問題を解決する決疑論的な能力」
・教養とは「生活の交通整理をするための『自分らしさ』のこと」
・「教養とは何ですか?」とたずねられたら、 教養とは 問題解決能力 である。 と、答えるのがよいのではないか
要は、「教養とは問題解決力である。」 という話。
教養とは(ピースミールな)問題解決力のことである
とりあえずこれを受け入れるとして、問題解決力とは何か、という話になります。
この記事では問題解決能力は次の3つから成り立つと書かれています。
(1)問題を「正しく」認識する力
(2)コミュニケーション能力
(3)知識・情報をツールとして使いこなす力
別の記事では問題解決の基本的なプロセスが示されています。
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-663.html
・問題に気付く/問題を見つける
・問題を定義する、問題を設定する
・解決策を考える
・新しいことをする
・人に尋ねる
・似ている問題解決を探す
教養は専門(問題解決をしたい分野)あっての教養
教養が担うのは教養の核というべき問題認識、コミュニケーション能力、そして、専門との間の「のりしろ」に相当する部分です。横浜市立大学ではこれらに対応する3つの科目群を用意しています。
①問題認識に関係するのが「問題提起」科目群、
②コミュニケーション能力をカバーしているのが「技法の修得」科目群、
③最後に「のりしろ」にあたるのが「専門との連携」科目群です
これらを基礎とし、その上に初めて専門性が乗っかかってくる。そこまでたどり着いてようやく「知識、情報、学問などを運用して解決させる」フェーズに持って行ける。 そとから見ると、このフェーズしか見えない。だからこのフェーズの部分だけの知識だけを手っ取り早くほしくなるのだけれど、そこだけ手に入れても自分の身につかないようだ。
経済についても、アニメについても、何にしたって、いきなり目の前の現実や、難しい問題を論じようとするとスッカスカになってしまう。コンテンツを消費するという行為に限っても、教養に相当する部分があるとより深く楽しめるのかもしれない。専門性というと堅苦しいけれど、「自分がのめり込むほど興味があるもの」「もっと深く関わりたいと思えるもの」と考えると身近に感じられるのではないか。 そういう関心を持つためにもまず基礎が必要だってことかな。
教養とは、学び続けるための基礎
自分で学ぶということは、自分のわからないこと、疑問に思ったことなどを問題設定して解決していくことの連続から成り立っているといえます。
専門性を維持向上させるためにも、きちんと自分で学ぶ力を身につけておく必要があり、どこかで、自分だけで、そいうことを体験しておく必要があります。
自分で学びつづけるには「何を学ばなければ行けないのか」を知ることが必要になる。それを知るための道具を提供してくれるのが教養だという話。
「勉強して何の役に立つの?教養なんて役に立たない」→「役にたてる何かを見つけるためにこそ教養が必要」「何かを見つけたときに学ぶ力は教養が与えてくれる」
自分で学ぶことができたとします。そうすると、より多くの知識を得たり、より深い専門の勉強ができるようになります。そして、実は、自分で学ぶ力というものは、実は、教養の一側面に他ならないのです。自分で学ぶには、最初に何を学ばないといけないのかがはっきりとわかっていないといけません。あるいは、ちょっとした疑問を解決しようと思ったときに、自分がどこがわからないのか、どこが疑問なのかをはっきりさせる必要があります。
「何の役に立つの?」という問いは、「自分は何をやりたいかがわからない」という状態です。そして、「何がやりたい」かが解ったら勉強するというのですが、そもそも「何がやりたい」という部分を見つけるためには、教養が提供してくれる「問題解決能力」とくに「問題認識」のスキルが必要になってくるという訳です。
さらに、「何がやりたい」と思ってから勉強しても、教養が提供する「学ぶ力」がなければなかなか学び続けることは困難である、と。だから、大学で真面目に勉強しなかった人間は、与えられた勉強しかまともにこなせない、みたいなことになるかもしれないと。
うーむ、いまならとても納得いくのだが、
大学時代にそれを認識して修行出来なかったので人生オーワタ!
ちなみに最初は「教養主義」「オタク教養主義」について調べていた。これについてはあまり考えても幸せになれそうにないのでしばらく保留。