なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

うさぎさんに感じる複雑な感情について

http://blog.gyakushu.net/entry/30death

私のこの記事に対する感想ですが、ほかの記事は読まずこの記事だけ読むととうていこの記事の書き手のことは好きになれません。

この記事にはウソが書いてると感じます。ウソは言いすぎかな。矛盾とか誇張表現、そして説明すべき部分の不足がある。この人が自己中心的な人なのか、事実を正確に把握しようとしないいい加減な性格なのかはわかりません。少なくとも、この記事だけ読んだらとうてい記事の書き手のことは信用できない。

提示されてる住民税が年収400万に掛かってくる税金よりも高いんですがそれは?

これは市役所に確認してみるとわかると思うけど、現在の負債残高を通知してるだけ。事前に市役所と話しして合意とれてるなら問題ないはず。

月々1万払う約束したって書いてるのに1回しかはらってませんやん

こんなに厳しい状態なのに(が故に)苫米地本を読んで世の中への鬱憤を晴らしているという、ウシジマくん的なあまりにリアルな人間の本性。

そして、どうしても「自業自得」「お前もうちょっと頑張れよ」という言葉が頭をよぎります。


私たちに、うさぎさんに救う価値があるかないかを判断する権利などない

ただ、当たり前ですがこれは正直一つや二つの文章を読んだだけでわかる話ではないはずです。私は確実に早合点していますし感情的に判断しています。

しかも「自業自得」ではあっても「すべてが自己責任」だとは思いませんしそれで「今の社会がおかしい」という問いかけ自体が無効になるわけではないでしょう。

なので、こういうコメントには反対です。

文から迸る無能感…。本当にこんな人を救うならベーシックインカムとか色々な制度が必要なんだろうけど、そんな事までして救う意味あるのかな。

これ、ドイツの人たちがギリシャを救うときに同じようなことを言ってましたよね。


「怠惰なギリシャ人が苦しんでいるのは自業自得なのに、なんで俺たちがあの国を身銭を切って助けないといけないんだ。ギリシャが苦しんでいるのは自業自得だ。助けるのは反対だ。もっと財政を切り詰めさせろ」と。


この言い分もっともに聞こえますが、本当にそうでしょうか。ドイツ側の主張には「今自分が持っているものは、すべて自分の実力や努力で得たものだ」という前提があります。こういうのはメリトクラシー思想に基づくものですね。でもそんなに単純な話なんでしょうか。

みんな、EUという枠組みによって、ドイツはほかの国を犠牲にする形で大きく反映した、ということを知っています。ドイツ人はもちろん勤勉に頑張った。でもそれ以上に「交易条件」や「通貨的な優位」による恩恵が大きかったんですね。そして、それはほかの国のマイナスによって成り立っていた。ドイツ人の努力だけがすべてではない。これがなかなか認識しにくいんです。



感情的には「自分たちは勤勉なドイツ人で、うさぎさんは怠惰で自業自得のギリシャ人」みたいに感じるかもしれません。そしてこんなやつを助けるためになんでこちらが身銭を切らねばならないんだ、とか。もっと申し訳なさそうにしろよ(ベビーカー問題)、という気持ちになるかもしれません。というか、上で書いたように、私は感情的にはもろにそう思ってます。たった一つの記事を読んだだけなのに、うさぎさんは怠惰な人間であり、彼が今苦しんでるのも自業自得だし、こんな人間を救う価値があるのか、みたいな傲慢な心が自分の中にあります。



でも、これは考え方自体が間違いだと思うんですよ。やはり「うさぎさんが苦しいのは制度がおかしいのでは?」ってことを考えるのも必要だと思います。

もしかしたら適正な商いなのかもしれません。ですが、もしも本当に心の底からそう思うのでしたら、いかがでしょう。町の人々に見てもらっては?

町の人々が日々の生活で必要な小銭に窮しているのに、教会はこんなにも大量の貨幣を他所にうって利益を得ていると知れば、人々はどうして教会が民衆の味方だと信じられますか?ただでさえ、大司教様の食卓は豪勢だと評判なのに?

節制ですよ、ステファンさん。確かに教会は多くのものを失うかもしれません。ですが、それはもともと取りすぎていたのです。教会のふるまいの多くは到底正当化できません

我々は境界を滅ぼそうというわけではありません。大司教様は問題が数あれど、聖務には熱心な方だと聞いています。引き続きこの町の聖務は任されると思いますし、人々もそう望むでしょう

そんなわけで、条件が違ってたら自分も同じように苦しい立場になってたかもしれないな、みたいに考えなければならないだろうと。自分の努力だけではなく幸運に感謝して、不運だった人を支えるみたいな視点を試しにとってみるのも重要だと。

今自分に言い聞かせてます。







蛇足:まとまり切らなかった部分

うさぎさんや貧困女子高生個人の話ではなく、制度の話をしよう

以前の貧困女子高生の話題の時、結局女子高生は貧困なのかどうか(=NHKのやらせ)に焦点が集まって、貧困そのものや社会制度についてはろくに話がされずに終わりました。

なぜこうなるのかは、「貧困」について考えるのは大変だが、「目の前の女子高生」について考えるのが楽だったからでしょう。

「処理流暢性」ってなに?→「わかりやすい=真実」にみえてしまう心理です。 - Togetterまとめ

今回も、ブコメでは「うさぎさん個人」に注目するか「制度(に苦しめられている自分)」によって分かれているようです。ですが、どちらの立場の人も、制度自体には問題があると感じているが、どう考えてよいのかわからないし面倒だから、とりあえず「うさぎさん」の話か、「自分」の話かどちらかをしているように見えます。



でも、ぶっちゃけどうでもいいじゃないですか。見知らぬ他人であるうさぎさんが怠惰なのか自業自得なのかなんてことは。この人とリアルでつきあおうと思ってる人なんていないでしょ? この人にかこつけて自分語りしたところでどうにもなりません。



でも、大事なのは、たとえうさぎさんの今の現在が自業自得であっても、今の制度が正しいという話にはならないってことです。どんな人間であれ、制度的な問題点を呼びかけること自体は間違いではないはずですし、そこに問題があるなら議論する価値はある。話し手であるうさぎさんから自業自得感がただようせいで、「うさぎさんが苦しんでいるような今の制度はおかしい=うさぎさんを救え」と言われてるように感じちゃう人がいるかもしれません。そういわれたら反発を感じるでしょう。でも、「うさぎさんの是非はおいといて今の制度にはやはり問題がある」という話ならできるんじゃないでしょうか。



いちいち言うべきことではないですが、私はうさぎさん個人はどうしても好きになれません。というか、ぶっちゃけ私はこういう記事を書く人のことは大嫌いです。

http://blog.gyakushu.net/entry/haken_1

みんなの反応が厳しいのは若者に厳しいんじゃなくて、「うさぎさん」という個人が気に入らないだけです。擁護してる人も、別に「自分」をうさぎさんに投影しているだけで、うさぎさん自身に問題がないとは思ってないと思いますよ。

そこのところごまかす人は、たとえ制度がまともになったところでそうそう浮上したりはできないと思う。そうやって、批判されたら「自分の属性」の問題にして、「ほかならぬ自分自身の問題」と向き合うことを避ける人、なんか最近すごい多いですよね……。


生活が苦しいということは甘えではないにしても、この記事は甘え以外の何物でもないでしょ。


本当に、感情面でいえば、この人を助けたいという気持ちは全くこれっぽっちも感じません。気の毒だとすら思わない。制度がまともであってもこの人は駄目でしょ、とすら思う。


それでも、繰り返すけどこの人がダメ人間であることと制度全体の話は全く別の問題です。好きな人だけ助ける、みたいな話ではないはずですし、好きじゃない人を無理に助ける、みたいな仕組みでもないはずです。 個人の話は参考にしつつ、やはり制度として公正な形を考えていくべきでしょう。