なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

増田のための物語 「キャッチャー・イン・ザ・トイレット!」

http://seiga.nicovideo.jp/comic/6164

2,013年12月19日現在ではニコニコ静画で全話読めるようです。

どう考えてもすんげーダメな作品だと思うけど、私にはこれ否定出来ない。
これは増田で長いことくすぶってた自分にはとても気持ちのよい話だった。
どうしようもないダメな作品だと思うけど、すごく好きだ。


物語としては失敗作だと思う。
人におすすめしようという気には全くならない。

リアリティを全く感じない設定だけでできたキャラ、何も心が動かされない薄っぺらいメッセージ、笑えないご都合主義的展開。まことにうんざりさせられる。

最大の問題として、主人公の成長をテーマとしているっぽく描いてるようで、実際には主人公は全く成長しとらん。あるいはその主人公の成長が、ご都合主義によって台無しにされとるのではないか、という指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/krus/20080401/p1

さて、これは黒沢は成長しているのでしょうか。一見、成長しているように思えることでしょう。が、実際には成長などしていません。「懺悔」も、罪を償って変わろうと思っての行動ではなく、むしろただの、「オ○ニー」でしかないのです。オ○ニー的自己反省をし、それにより何故かオ○ニー的に許してもらえ、更には好意までもらえます。「オ○ニーマスター黒沢」とは、ただ「(実際の行為としての)オ○ニーのマスター」というだけでなく、このひどくご都合主義的で妄想的で「オ○ニー的」であるという意味での「オ○ニーのマスター」でもあります。

私も同感だ。少なくともこれを成長物語と読むことはできない。にも関わらず、それを成長物語っぽく表現しようとしているのだから、これは失敗作だ。




でも大好きだ。

好きだというか、「これは私のための物語だ」とさえ思ってる。



物語として失敗している所、
誰も救えない所、
誰とも心から交われない所、
ご都合主義的な妄想でお茶を濁す所。


すべてが茶番だ。
どうしようもなく虚しい茶番だ。


だが、私はそこにリアリティを感じた。これこそ「私にとっての」増田だ。
「私がそう思ってる」増田と通じ合うものを感じた。




増田は誰にも見えないところに隠れ、もうそう★にっきを書き散らして己の欲望を慰めることしかできない救いがたき存在だ。

増田は「何者にもなれない」のではなく「何者にもならないことを自主的に・積極的に選んだ」のだと思い込もうとして実際は何者かになれないだけの自分をごまかしているだけの道化だ。

そういう増田のどうしようもなさをあますところなく描いている。その一点において、私はこの作品が大好きだ。





ただ、何度も言うが、この作品は作品としてはダメだ。

好きだけどダメだ。

増田という、ネット上の便所のドアの裏でしかキャッチできないメッセージなんて本当はない。 できることはただ己の御しきれない衝動を、匿名という便所の扉の裏に隠して発散するだけのオ○ニー的行為にすぎない。 それでもせめて、誰にも見えないまま便所の扉の奥で処理出来ている間はよかったが、調子に乗って扉の外に出て行って他人に迷惑をかけたら、もう完全にこの黒沢と増田は同じになってしまう。とても気持ち悪い。あげく、ネット便所の扉をあけて、便所の外でも己の衝動を発散しようとするなら、それはもう犯罪に近い。それが他人にそそのかされたのか、自己満足のためかは関係ない。ダメなもんはダメである。

この作品は、そういうダメなもんを主人公に延々ダラダラと実行させ、そういう行為をやらかしたを(なんちゃって試練はあるものの)特に納得できる根拠なく、ご都合主義によって全面的に救済してしまう。「これあかんやつや」としか言い様がない。改心後のラスコーリニコフが全力で作者の頭に斧を振り下ろすレベル。



でも、ダメだけど好きだ。

この作品は「いい夢みれたかよ?」って言われなくても醒めちゃうような安っぽい幻覚にすぎない。似ているがゆえに違いも際立っていて、決して自己投影はできなかった。 でも、別の増田としてなら見ることができた。 自分の仲間が一人幸せになったような感覚は味わえた。 それでいい。