なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「うちら」の歴史 : 内田樹さんからMK2さんまで

以下は私の「取りつく島」である。せっかく語る以上は「他の人が言いそうもないこと」を書こうと思う。他の人がまず言いそうもないこと、同意してくれそう人があまりいそうもない話なのだから、それが「解釈として正しい」ということはありえない。
でも、それでよいのである。
別に私は「正しい解釈」を述べたいわけではないからだ。石蹴りをする子どもが最初の石をできるだけ遠くに蹴り飛ばすように、できるだけ遠くまで解釈の射程を拡げてみたい。

http://blog.tatsuru.com/2013/08/07_1717.php

内田樹さんの名言。これは内田樹さんが経済記事とか書くとき冒頭に必ず載せて欲しい。
私もこの精神にのっとって、正しい正しくないかはともかくつながりがあると私が感じた物をつなげてみる。


MK2さんが提起した「うちら」という「聖域」

http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425

彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。

「うちら」の感覚を理解するためのキーワード「やさしさ」

http://kousyoublog.jp/?eid=1614

1970年代前後、社会の閉塞状況の中でお互い傷ついた弱いもの同士であり、慰めあい癒しあう「互いの傷を舐めあうようなやさしさ」が求められ始める。その後人々は、様々なモノが小さな傷であっても新品として認められなくなるように、人間の心も傷つくと取り返しがつかないと思うようになり、人を傷つけないことこそやさしさだと考えるようになる。

旧来の「治療的やさしさ」の人は熱い思いを好み、新しい「予防的やさしさ」の人はそれが苦手です。

例えば、人が苦しんでいるとき、治療的やさしさの元では「大丈夫?」「元気だそうよ」「頑張れ」「なんでも相談してよ」など言葉を掛けることが「やさしさ」であり、かけられる側もそのやさしさを期待しているし、言葉によって励まされます。それに対して予防的やさしさの元では人が苦しんでいたらいらぬ言葉をかけずそっとしておいてあげようとする。または言葉を掛けず、暖かい沈黙でそっと見守るような非言語的な面を酌みとって対応をすることが現代の「やさしさ」と言える

しかし、このやさしさの形はさらに変化しつつあるのかもしれない

行き過ぎたウォームな関係性としての「予防的やさしさ」から上記の「半径1m以内」世代は脱却しつつあるかもしれない。それはホット→ウォームと来てクールな関係性。そもそも広い範囲の関係性を持たず、自己内で完結させ、孤立を選ぶ人たちが徐々に増えていくのではないだろうか。そして、そういう関係性の解体は近代社会の自然な流れかもしれない

そのサイクルの果てに関係性に関して新しい価値観が登場するのではないだろうか。どんな価値観かはまだわからないが

「うちら」の前景となるロスジェネ世代

http://kousyoublog.jp/?eid=1578

現代社会はいびつながらも全方位的競争社会に突入しているが、全方位的競争社会での先の見えなさから若者たちは「未来」よりも「今」の心地よさを重視するようになり、競争社会と距離を置いて「半径1m以内」での生活を好むようになった

共同体の解体と個の尊重(人格崇拝)→人生の自己目的化→今を重視した生き方
という大まかな流れが背景にあるのではないか。

今を重視する社会構造の変革がなされて来ながら、これからは競争社会で未来志向で頑張りましょう。ではギャップが生まれるのも当然というか。その一方で「半径1m以内」の生活とは正反対に前のめりに行く人たちというのも多く居て、それはロスジェネ世代なのだろう

もうちょっと長いスパンで語られるべき志向性で、それは明治維新から始まる近代化の一つの完成形あるいは落し子的ライフスタイルなのではないかと思う。加速する社会(関連→「時間意識の近代―「時は金なり」の社会史」西本 郁子 著」)ゆえに生まれた一つの考え方

そして内田樹風立ちぬ

http://blog.tatsuru.com/2013/08/07_1717.php

深く傷つけられたものがある。それはそのような「みどりの多い日本の風土」の中でゆったりと生きていた日本人たちの生活時間である。人々はかつてこの風土に生きる植物が成長し、繁茂し、枯死してゆく時間を基準にしておのれの生活時間を律していた。植物的な時間に準拠して、それを度量衡に、人々は生活時間を数え、ものの価値を量り、ふるまいの適否を判断した。でも、戦争が終わったときに、日本人はその生活時間を決定的なしかたで失っていた。
日本人は1945年にある種の「時間の数え方」を亡くした自分を発見したのである。

「うちら」は明治時代からの大きな流れの帰結ではないか

http://kousyoublog.jp/?eid=1575

産業革命に端を発した高度資本主義が発達した社会の特徴はスピードだ。

時間の流れの中で、どれだけ速く、他人よりも多くの金銭的成功を、常に手に入れ続けるか、そのためにどれだけ効率的に時間あたりの生産性を高め、能率を上げていくかが重視される。

加速し続ける社会はどこかでひずみを生む。
ボネがこう日本を評した二年後、日本で一つの言葉が誕生した。「過労死」である。

資本主義社会である以上、これからも加速し続けるのである。それは現代社会の業と言ってもいい。インターネットで知の高速道路がしかれたよ~とか言っても、数年後、数十年後にはさらに加速しているはずだ。そして、加速は、それについていけない人を生むし、脱落できなくて加速する社会に引きずられていくと最悪死を迎えることもある。

蛇足:「うちら」を待ち構えるインターネット

http://www.mammo.tv/interview/archives/no239.html
http://ascii.jp/elem/000/000/413/413577/index-2.html

80年代頃までは、メディアリテラシーをめぐる議論の中心は左翼やリベラルで、「あるべき市民」のモデルが暗に想定されていました。もともとメディアリテラシーという言葉が、「大きな権力」や「大きなメディア」に対抗するという文脈から出てきたからです。

無論、そこにはある種の倫理観などもセットで含まれていました。

だが、残念ながらこの考えはネットには通じません。対抗するべきは大きな権力や大きなメディアではなく、小さなメディアに反映された、あちこちから湧いてくる有象無象の諸欲望なので、相手は自分と同様にフラットな関係であり、しかもそれに対抗できたからといって「市民」として成熟しているかどうかは別の問題になっている。