なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

自分の中には自分の思い通りにならない自分がいることを当然として受け入れる

没4。まわりくどすぎる。要するになんで自分が鬱になるのかという話。



有名な「ジョハリの窓」というものがある。
自分というものを4象限に分類する方法だ。

自己には
①「公開された自己」(open self) と
③「隠された自己」(hidden self) があると共に、

②「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己」(blind self) や
④「誰からもまだ知られていない自己」(unknown self) もある

・常日頃から「俺の気持ちがわかるか!」「こいつは俺のことがわかってない」とわめき散らす人、つま

りブログで自分を主張し続けずにはおれない私のような人間は、もしかして自分というものを第一象限の

みで考えているのかもしれない。


・「自分」というものを、自分ですべて把握していると思っている。



・俺の自覚している俺が俺なのだ、と考えている。俺が開示できる俺だけが俺なのだと考えている。 自

分の思い通りになる自分、自分がこうだと思い浮かべている自分だけが自分だと思っている。



・そのとき、自分の意のままにならぬ自分というものから目をそらしている。第二象限、第四象限の自分

をなかったことにしている。場合によっては強く否定したいとおもっているのかもしれない。この自分へ

の憎悪は第三象限の隠された自己にも及んでいるかも知れない。ネットで文章を書いている自分は、常に

自分の4分の3を殺し続けているのかも知れない。


・私が他者から求めるものが第一象限の自分に対する賞賛・共感のみであるなら、私は本質的には他者を

求めてないと言えるかもしれない。


・自分一人でいるなら、それで不都合はないのかもしれない。むしろそういう第一象限の自分だけを自分

だと思いたいなら、他人とつきあうことは苦痛でしかないだろう。他者というのは、自分の中にある第二

象限の自分をこれでもかと思い知らせてくれるからだ。



・しかし、自分が自分の第一象限に固執し、第二・第三・第四象限を否定し続けるとたぶん心が疲弊する

。 どれだけ否定しようとも自分の中には自分が制御できない自分がいる。自覚すらできない部分がある

。そこから目を背けて生きようとしてもたぶんいろいろ矛盾が起きる。気合いでごまかすにも限界がある

だろう。「キャラ疲れ」とか「ネット疲れ」はこのあたりが原因ではないか。「開示できる自分」だけで

人とつきあうことは難しい。



・ここまで考えたけれど、よく考えたら、上記の第一~第四象限は、接する人によって変動すると思う。

特に「開示している自分」と「秘匿している自分」は相手によって調整可能だ。

ネットで




今から考えると中二病というのはおもしろいと思う。

自分の中に未知の自分があることを