なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

コミュニケーション能力と、ディスコミュニケーション能力

本当に「乱暴で有ること」や「行儀が悪い事」そのものに価値があるという倒錯に陥ってる人がいる。

他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になること。それだけを目的としているのです。本来、なにかしらの結果を残すためには、一定の努力が必要になります。ところが、「特別な存在になること」が自己目的化していると、そうした健全な努力を回避したまま、他者の注目を集めようとします。アドラー心理学ではこれを「安直な優越性の追求」と呼びます。
たとえば、授業中にに消しゴムを投げたり、大声を出して授業を妨害する問題児がいる。たしかに友達や教師たちは、注目してくれるでしょう。その場限りであっても、特別な存在になれるでしょう。しかしそれは不健全な態度なのです。さらに「安直な優越性の追求」は「復讐」と容易につながるものです。相手を困らせながら、同時に「特別」であろうとしているのです。

いつもどおりの平常運転で、露悪的な言葉を並べ、不埒な発言を繰り返し、差別意識を露呈し、偏見を丸出しにして語っている彼らは、自身を特段の「悪党」だとは見なしていない。むしろ、自分は自らの気持ちに正直なだけで、口のきき方やマナーにはもしかしたら若干の問題があるかもしれないけれども、人間として、男としての生き方について言うなら、それが間違っているなどということは、ひとっかけらもあり得ない、と、考えている

http://possession.hatenablog.com/entry/2014/06/20/230527




これ、ハックルさんが自説をジョブズの話にむりやりこじつけて、正当化してるのと同じ構図だって気づこうね。


わたしかあまりこういう大雑把なものさしをつかいたくないのですが、「乱暴なものいいや、適当なものいいが許されないとろくにしゃべれない」ってのはすごい甘えだなと思う。 それが許容される範囲でしか生きられないってことじゃんそれ。 しかも、そういう幼稚なレベルを認めろと言いつつ、自分を評価しろっていうのは、それ「安直な優越性の追求」でしかないと思うんですよね



ディスコミュニケーションの果て

それにしても、上記のズレた解釈ってなんか怖い。不気味。

コミュニケーション能力について、内田樹さんの定義した「対人においてコミュニケーションにほころびが生じた時にそれを補修する能力」を採用するならば、青二才さんがみせる「コミュニケーションできているつもり」という自己完結状態はコミュニケーションのほころびを加速する。 あげく、その状態で理解を固定してしまう。こういう「間違った意思疎通を成立させる」能力として、ディスコミュニケーション能力と名付けたい。


基本的にリアルでは、そのずれた解釈は長く維持できない。 そういうことばかりやっているとコミュニケーションの輪からはじき出されるから。しかし、ネットでは「コミュニケーションの相手を取り換え続ける」労力さえ惜しまなければ、ずっとディスコミュニケーションを持続できる。 ディスコミュニケーションは自分だけではなく相手にも発生するので、なかなかズレが認識されにくいところがあるのかもしれない。ある時点で、「あれ、こいつの言ってることおかしくね?」ときづいた瞬間にすべてが崩壊するような危険な感じがする。


ディスコミュニケーションとは、こんな感じで砂上の楼閣を築き上げては崩す作業なんではないか。賽の河原ではないか。 これを繰り返すのって、しんどいと思う。だからまともにコミュニケーションを志す人は去っていく気がする。そうして、ディスコミュニケーション能力が発達している人の周りの人間は、あらかたウォッチャーになるのかもしれない。


私はディスコミュニケーション、つまり自分の自己完結した論理を他人に押し付けだしたらそれはハラスメントにあたると思っています。twitterでバカな発言を誰ともなくつぶやいているのはよいとして、調子に乗ってその自己完結論理を他者にぶつけはじめたら、ハラスメントくそ野郎としてぼこぼこに殴られるべきだと思います。