なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

インプットは自由に、アウトプットは慎重に

ロバストネス原則

2.10. robustness principle(ロバストネス原則)
TCP implementations will follow a general principle of robustness: be conservative in what you do, be liberal in what you accept from others.
「送信するものに関しては厳密に、受信するものに関しては寛容に」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB

ブコメで教えていただきました。ありがとうございます!

アウトプットは義務ではない。必ずしも自分の意見を書く必要はない

私の観測範囲内に、毎日記事を更新しようとして苦しんでいる人がいる。その人は、毎日何らかのオピニオンを書かなければいけないと思い込んでいる。そのため「自分独自のオピニオンがかけるようなネタがない」といって悩んでいるのである。


しかし、ブログでは、必ずしも自分のオピニオンを言わなくてはいけないわけではない。むしろ、考えが整理できていなかったり、情報が足りない状態で無理やり自分の意見をアウトプットとして出そうとする行為は個人的にはあまり好ましいと思わない。


アウトプットは、ネットで他者とつながるための手段であると私は思う。しかし、アウトプットすること自体が手段ではなく目的になってしまうと、「アウトプットしやすいわかりやすいネタ」に惹きつけられ、脊髄反射的なアウトプットを繰り返すことに成ってしまうのではないか。

実際ここ数日の彼の記事は、情報不足の状態で自分の思い込みをただ垂れ流すだけの駄文になっている。心なしか、文章のレベルまで劣化している。ネタを出すことでいっぱいいっぱいになって文章の推敲などができていないのではないか。 アウトプットにこだわった結果、アウトプットが劣化していくのは皮肉なものである。その人は時間をかけて下調べして、推敲した上で記事をかけば結構おもしろいのに、非常にもったいない。*1


一方、毎日のように更新していて、レベルが高い記事が多い人は、己のインプットの整理をかねて記事をかいていることが多い。そした日々のインプットの「溜め」を背景として、時事問題について論じたりすると、他の人にとっても良い記事となり、ホッテントリする、という流れが理想だと思う。


なので、毎日のアウトプットを目指すのは良いが、アウトプットを「自分独自のオピニオン」なるものと固定して、それにこだわって逆に一つ一つの記事を劣化させていくよりは、アウトプットの定義を広く取って、「インプットをみんなと共有するのでもいいじゃない」「自分独自のオピニオンなんかにこだわらなくてもいいじゃない」と考えたほうが、長期的には良い記事が書けるようになる下地が作れるのではないかと言う気がする。

技術などの専門系ブログをめざすのでなければ、むしろブログなんて、インプットの蓄積で、そこから時々アウトプットが出てくる、程度に考えておいたほうが良いと思う。



インプットとアウトプットは直接つながるものではないという基本的な話。

インプットとアウトプットの話といえばもう一つ言いたいことがある。

去年ははてなブログで明らかに「文章への批判に慣れていない」人を多く見かけた。この人達の特徴は、アウトプットを批判されると、自分の感じ方・インプットまで批判されたと勘違いして発狂するということである。これは自分の感じ方=インプットをそのまま表に出すのがアウトプットだと思っていなければ起こらないことだ。この人達は、自分の内面と、公に見せる文章が不可分に結びついているということである。

内面を率直に語ったものが文章であり、そういうものしかないのだと思い込んでおり、だからこそ推敲しないことを自慢気に語ったり、一筆書きであることをむしろ良いことだと思っている。自分の真意は適当に書いても文章に必ず現れるものであり、誤読されることなどありえない。誤読されるとしたら、誤読する奴がおかしいと言いはるのである。結果として、twitterでも表現に考慮しないし、それにツッコミをいれられると逆ギレする。

同質的な人間だけが集まり、共感し察しあう。違う価値観を持つ人間がいることを想定しない。そんな「やさしいコミュニケーション」(by平田オリザ)を前提とし、当然のものだと思って、ネットに無防備に文章をタレ流ししている。そして、それを無制限に認めてほしいと思っているのである。 それは、あまりに社会性が未発達であると言わざるをえないのではないか。


インプットは自由である。だが、それをどうアウトプットするかは慎重であるべきだ。そのためにも、まずインプットとアウトプットは別物であることを理解し、「たとえインプット(感じ方)が正しくてもアウトプットがダメだったら批判されること」「アウトプットが批判されたとしても、インプット(自分の感性・受け取り方)まで批判されたとは限らないこと」などを理解しなくてはいけない。

はてなブログになってから、アウトプットを批判された時に「自分の真意」を述べ、アウトプットまで肯定しようとするという奇妙な反応をして、それが認められないと落ち込むという人があまりに多いのでびっくりした。 1年前にこういう奇妙な反応をするのは、青二才氏くらいだと思っていた。 このような、インプットとアウトプットを直結させる考え方は、誰も幸せにならないので改めたほうが良いと思う。


許されないアウトプットがあるとしたらそれはなにか

ついでだから、アウトプットについてもう一つ。

こういういう話をすると脊髄反射的に「ネットの自由」「言論の自由」という言葉を
教条的に振りかざす人が出てくると思うが、少し考えて見ると面白いと思う。

例えばこういう記事もある。

今のネット上の発言に見る一般的傾向はこれである。自分自身が送受信している情報の価値についての過大評価。自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落しているのである。


ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。それは自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。

根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。

繰り返し書いている通り、挙証の手間暇や、情理を尽くした説得を怠るものは、言論の場の審判力を信じていない。真理についての検証に先だって、自分はすでに真理性を確保していると主張する人間は、聴き手に向かって「お前がオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っているのである。それは言い換えると「お前なんか、いてもいなくてもおんなじなんだよ」ということである。私たちはそういう言葉を聴かされているうちに、しだいしだいに生命力が萎えてくる。それはある種の「呪い」である。言論の自由には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思う

http://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php

実際に許されるかどうかという制度的な問題はともかく、
自分の中で「これはあかんやろ」と思うコミュニケーションはやめるべきだと私は思う。

そもそも、「ネットでの発言の自由」を声高に主張する人の主張を整理すると、
大抵の場合「俺の自由」を主張するあまり「それに対する批判はけしからん」といって
批判の自由を封殺しようとする人があまりに多いのでこれもちょっとどうかと思う。



問題なのは、承認欲求ではない。
他者および他者が集まる場に対する敬意の欠如である。
たいていこれはセットになるのだが、問題なのは後者である。

これは他者とのコミュ二ケーションを拒否したまま、
コミュニケーションの場で居場所を主張するようなものだ。
自分と意見を異なる他者を否定し、排斥しようとし、
その結果、自分の気に入ったコミュニケーション以外に呪いをかけてしまう。

*2


プラネット・ラダー

「ウェブニタス別冊」に寄稿した「青二才論」において、「プラネット・ラダー」という作品を紹介した。
(追記:ここで買えます→ http://alice-books.com/item/show/1841-1

この作品は、上に述べた「呪い」というものを恐ろしさとさびしさを、目に見える形で戯画化してくれている。
そして、最後に呪いにとらわれた王子が、それから癒えていく過程が描かれる。
ちょっと古いけれど、とても面白い作品だと思うので、是非読んでみてください。
王子が呪いにとらわれた時の描写は、あまりにせつなくてガチで泣いてしまった。

あと私はこの作品のバンビさんがものすごく好きなのです。
一回このマンガについても感想記事書いてみたいかも。


伝承は「王の手は癒しの手」と唱える。この癒やし人は、キズや病というよりは、人を滅ぼす根源的な悪そのものを押しとどめ、これを打ち破り無にしてしまう力を保つものとして現れるのだ。

http://possession.hatenablog.com/entry/2013/12/21/133937

ということをつらつら考えていたら、
「対話」については思ってることを部分的にでもいいからアウトプットしていって
どこかの段階で整理してみたいなと思ったので、
明日からしばらく「わかりあえないことから」「ニッポンには対話がない」あたりを引用しながら、
自分のインプットを整理していってみるつもりです。

*1:これに関して、内田樹のブログで、新聞が、組織の維持や毎日決まった分量を更新することを自己目的化したために劣化したのではないかというような話をよんだことがあり、それを引用したかったのだが見つけることができなかった。もし記憶されている方がいたらどの記事だったか教えて欲しい

*2:私自身はこれを「呪い」ではなく「ハラスメント」と読んでいます。http://possession.hatenablog.com/entry/2014/01/17/095153参照