なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

私はどっちかというと「承認欲求」より「包摂欲求」が強いかな

承認欲求の話がまたにわかに盛り上がってきていますね。そんな中

承認欲求と包摂欲求ってのがあってだな。/マズロー引くのはやめといたほうがいいよ、ホネットさん引いて

ってコメントがあって、これかなり大事な指摘なんじゃないかなと思いました。

昨日の記事にも繋がりますけど、「承認欲求」って言葉だけですべてを説明しようとするからいろいろおかしくなるんじゃないかという話ですね。(昨日は「マナー」とか「ルール」って言葉だけで電車の中の問題を解決しようとするとかえって対立が起こるんじゃないかという話でした)


というわけで、この「包摂欲求」って言葉は正式ではないかもしれませんが、意識しておきたいと思います。まだよく理解できてないので、あくまで感覚的な話ですが、今のところ私はだいたいこんな感じで認識しています。

承認欲求というのは、出る杭化したい。特別扱いされたい。個性を尊重されたい、という感じ。
包摂欲求というのは、埋没化の希求というか、特筆するものが無くても認められるような穏やかな安心感がほしい、という感じ*1

もちろんきっちり切り分けられるものでもないs、両方が必要なのだと思いますが、私なんかは、自尊感情があまり高くないので現時点では、まず「包摂」を求める感情が強いです。あんまり一発逆転求めないで、まず確かな足場がほしいというか。


池田さんは私がこの記事で「包摂欲求」と読んでいるものを「下位承認欲求とコモディティ化願望」と表現されていますね。

どうも僕は「下位承認」への欲求が強いようである。私なんかがいなくても良い世界。私の行動なんて何も影響しないという前提が浸透した世界を望む――それはもちろん「そうではない」という肥大化した自己評価に基づいており、自己評価は劣位感が引き起こしている。

http://bulldra.hatenablog.com/entry/2013/12/27/181238

これ、微妙に「包摂欲求」とニュアンスが違っていて面白いです。











あとはメモです。この問題は簡単に結論出ないでしょうから、まったりと考えたいと思います。


□大学生に見る若者の「承認」欲求の現在
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nanbakoji/20140108-00031373/
これは、承認欲求と包摂欲求が無自覚の内に混在してるというかねじれ絡まってる様子なんじゃないかと。つまり、今、承認欲求と包摂欲求って上で書いたみたいに綺麗に切り分けられるものじゃないんだろうなとは思います。

http://gerge0725.hatenablog.com/entry/2014/01/09/112825   反論記事も大事ですね。


□萌えと寛容
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20121230/1356892121
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20120815/1345046911

これがよりマスな商業主義に載ることで、ある種「萌えるよね?だから買ってね、好きなだけ萌えていいから」という寛容の構造を生み出した。ある種の欲望の喚起がデザインされ、欲望の解放をお金と交換することで包摂する。このキャラ可愛いよね?グッズ揃えませんか?というメッセージが強力に発信され、それらを持っていることがオタクの世界やそれと親和性のあるネットの世界ではある種のステータスとして機能する。別に萌えに限らずともコンプガチャの流行だってこの仕組みがうまく取り上げられ、かつ参加の敷居が下がったことが大きい。拝金主義と思うなかれ、安いお金で承認が買えるのであればそれは社会が豊かな証拠でもある

オタク界隈における「包摂」の形について。今ネットで起こっている「にわか」と「古参」の不毛な争いは「承認欲求」と「包摂欲求」の悲しいすれ違いのように見えてきますね。ちなみに私はshowgotchさんの記事が大好きです。面白いのでみなさんも是非読んでみてください。関連記事としてこれも紹介しておきます。

□「ポストモラトリアム時代の若者たち」
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20130601/1370136347


□社会的包摂って大切かも
http://sma-run.sakura.ne.jp/site/blog/2013/04/powers-of-ten.html
個人的には今回一番気になっている記事。承認欲求が強い人が溢れ出すように成った背景についての考察ですね。

・メタメッセージが「私を承認しなさい」で溢れていくことと、それは社会的包摂性の解体によって引き起こされている。(中略)流動性の波に乗れない人だっているわけで、そうした人は、足場(共同体)を確保できないままに立ちすくむ

・どこにも自分を包摂してくれる場所がないというのは、孤独であり空虚でもあります。そしてついには、こうした事実に耐えられなくなります。 で、どうなるのか。 大澤真幸によれば「アイロニカルな没入」、宇野常寛であれば「あえて、ベタに、決断主義的にコミットする」ことになります。 正誤は分からないけれど、自己選択、自己決定によって何かに没入、コミットすることで、自己承認欲求を満たそうとするのです。自己承認欲求は、コミットする対象が強固なものであるほど最大値化して満たすことができるはずです。ですから選択において、中庸はありえません。(中略)その不気味さは、時に消費者の、あるいは弱者のペルソナを用いて駆動する点で、自己承認欲求を満たすための「アイロニカルな没入」のひとつの表出

私が気になってしょうがない「青二才的なるもの」を、この上なく的確に表現してくれているような気がしますし、まだ足りないような気もします。



□排除型社会: 包摂型社会から排除型社会へ
http://d.hatena.ne.jp/tshirak/20111013/1318474490
こちらも「排除型社会」という用語を抑えておく意味で大事かな、と。2011年頃はよく聞いた言葉ですが、最近聞かないですね。でも、最近のホッテントリにはこのかなりつまらないことで「排除型社会」が浮き上がってきているので覚えておくと良さそうです。



□なぜ承認欲求と自己愛が問題になるのか?
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20140105/1388933903
この記事は、承認欲求に関する話として見ると背景の掘り下げが弱くて満足度低いのですが、「負けることのススメ」みたいなテーマが興味深いです。「負ける」ことができるということは「勝負が成立する」ということであり、そこには「ゲームのルールの存在」があるのではないか、それがないのであれば、「本人が負けを納得できるまで付き合ってくれるという最大レベルの承認」が存在するのじゃないかと思ってて、そのあたりについて考えてみたいです。





□承認欲求四部作その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140109/p1

2 承認欲求の社会化レベルが問われている

が気になります。



□アクセル=ホネット 「承認をめぐる闘争」
http://polylogos.org/books/honneth.html
ヨーロッパでは、「承認学」というのがちゃんとあるらしいですね。こういうのを見ると、「日本が、承認という言葉をちゃんと定義できてないまま議論している」ことが浮かび上がってきそうです。 ただ、正直いって、ヘーゲルの「精神現象学」をまともによめない私にはハードル高すぎる気がします…。


□G.H.ミードの「自我」に関する理論
http://homepage3.nifty.com/kiraboshi2/Abraxas/Social_Self.html
ここらへんまでいくときりがなさそう。承認欲求の話は底なしやでぇ…。



他にも「承認の価値のデフレ」みたいな話も興味あるのです。

*1:この定義だと包摂の方に「承認」も含まれちゃって包摂最強になってしまうので、本当にきっちり対比関係にするなら、「何者かにならなくても排除されたり殺されたり理不尽な仕打ちを受けないという、最低限の生存権や安全が確保されること」くらいが良いかもしれません