なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

1年半以上ひきずったモヤモヤした気分が解消できるかもしれない

すごくつまらないことながら1年半以上執着していたことがある。
それからようやく離れられるかもしれないと今日はじめて思った。


※此処から先は完全に独り言です。他人が読むことを想定して書いていません。むしろ読まないで下さい。

自分の狭量

http://t.co/DsZTj46RsU

思想として男女平等主義者であることと、俺の内面がそうであることはイコールではない。

この時に、思想(理想)と、内面を切り分けずに語ってる人が多分多い。私も時々混同する。これ故に、ブログやtwitterで、状況に応じて言うことが180度違ってしまったりしてしまうのかも。

大事なことなのでもう一回。

思想として男女平等主義者であることと、俺の内面がそうであることはイコールではない。

これは、自分に当てはめて考えれば当たり前だ。でも他人がそうであることを、すくなくともその食い違いを無自覚にブログで垂れ流ししている人間を許してなかった自分に気づく。

そして、言動の食い違いが顕著すぎる人がいても、「人ってそういうものだ」と許容できたら、自分も少し心が楽になるかもしれないと思い始めている。


自分の執着

憎悪はこだわりである。なんらかの執着だ。
俺は自分が○○であることを心底いやがっていた。
あとはお決まりの転嫁である。
無自覚に自分の欲望の対象としてのさばっているのが許せない。
このような××欲と無縁の存在であることが許せない

これは

「○○が嫌いな荻上です」

と同じ図式だが、心がえぐられそうだ。

これは、私の執着の図式でもあるんだろな、やっぱり。 

あることが好きだったとして、それについて「挫折」「去勢」「諦め」「現実わからされる体験」をした結果、「自己嫌悪/否定」と「成功者への憧れ」に分岐する。

自分を卑下し、かつ成功する人に憧れる。諦めるためにも自分自身がその行為をやることは否定する。「選ばれたものだけに許された行為」として神棚に上げてしまう。

この二律背反する感情は、「自分」と「選ばれたもの」しかいない間だけは接すること無く安定する。しかし「選ばれていないのにやる人間」を見ると、両者がまた合流して自らが「挫折」「去勢」した時の感情が刺激されよみがえる。

憧れと憎悪が入り混じったらそりゃ感情としては最強である。この感情が▲▲▲に向かわなかったのは、自分でもよくわからん。

悔しいやら悲しいやらネガティブな感情が想起され、それは「その感情を呼び起こさせた存在への怒り」として転嫁される。また、その怒りはぶつける相手を選ぶ。弱そうなものにターゲット照準を合わせてしまう。非常に情けないが、全部無自覚だ。



自分の生理的嫌悪感あるいは禁忌の意識

「日常生活では俺の倫理は俺に対して○○を許容していない」「自覚的にはやっぱり▲▲平等論者だ」「しかし、無自覚に漏れ出る部分がある。その自覚していない部分に説明をつけるとしたらこんな感じ」「ただし、自覚してない領域まで踏み込んで分析した場合にはあてにならない」 

なんちゅう荒行だ。こんなことが普通の人間に可能なのか。荒行というか、自分で無理やりジョハリの窓の2~4に首ねじ込んで覗きこんでるみたいな感じなわけで、これって普通は離人症でも無い限り出来ないんじゃないかと思うんだが、すべてを文章に出してそれを振り返ることでそのムリ技が可能になるかもしれないのか。 自分は絶対やりたくないけれど。

この自覚と無自覚の間を行き来するって怖くないんだろうか。たとえば酒の力を借りて自覚のタガを外した状態を記録するとか、一筆書き推敲なしで長文書き連ねるとか、深夜のtwitterとか、そういう制御できない自分、普段自覚しない自分に出会うのは怖くないんだろうか。

「一貫性」とか「文脈」とかそういった型を取り外すと、支離滅裂であるが、それ以上に「自覚」と「無自覚」の間の乖離を表現する文章が誕生するのかもしれない。私はとてもそれをさらけ出すことができない。だからこそ、それが平気な人を見ると、怯えて、嫌悪してしまうのかもしれない。


ダブスタだとか、本音と建前なんてちゃちな話じゃなく

人間には「自覚」してる部分と「無自覚」部分に隔たりがあって「無自覚」部分はほんとに混沌としており、制御困難であること

は何となく感じていた。そしてそういうものを、さらけ出すのはダメだと思っていた。 少なくとも自分には出来ないとおもっていた。それは「人間の内面のグロテスクさ」みたいなものを平気でさらけ出すようなものであると感じていた。単純にわいせつ物陳列したり、口汚い罵声を浴びせるよりずっと不愉快で、気持ち悪くて、許されないものであるように感じていた気がする。 


というのも、形式によって自分をある程度コントロールしようとしてる自分は、無自覚を含めた混沌とした自分を直視して、コントロールできる自信がない。そういったことを気軽にやっちゃう人間は、私から見ると気持ち悪くて怖い。 だからなんとか黙らせようとしてたのかもしれない。 

でも、必ずしもそういうわけじゃあ無いのかもしれない。コンビニ店長さんは、「強烈な意思」によって、自覚部分だけでなく、無自覚の部分まで掘り下げてみせた。正確かどうかはともかく。 なら、他の人でもやれば出来るのかもしれないし、少なくともやってるそばから否定するものではないかもしれない。



ルイルイの成長(アップデート)に自分も続きたい

今まで「得体が知れない」と思っていた。気持ち悪いから、目を離せなかった。ずっとウォチして、自分の価値観に照らしておかしいと思うものに細かくツッコミを入れていた。

でも、単に「自覚と無自覚の区別せず何でもかんでも垂れ流しにする人間」という理解でいいような気がする。

今までは

①理解できなかったりコントロール不能な部分は存在すら認めるのが嫌だ
②そんなものをむき出しにして行動してる奴は危険だ、監視して、取り締まろう、排除しよう

というくらいの恐怖に支配された感覚だったかもしれない。自分のことでさえこの有り様なのだからガッチャマンクラウズのルイルイを全く笑えない。でもまぁ、やりたいならやればいいかもしれない。私は気持ち悪いからみない、ってだけで良い気がしてきた。

なにより、問題なのは相手より自分の心の持ちようなのだとしたら、なおさらこの執着は認めた上で手放さなければいけないだろう。




とにかく、今後の自分がどうなるかはわからないけれど「自分には絶対不可能」な芸当を鮮やかにこなして、自分の心を揺さぶってくれたこの記事はほんとに凄いと思った。そんだけ。
http://t.co/DsZTj46RsU