なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

バカッター6

自分でもいろいろ考えてみたけど、結局この記事の先に進めなかった感じがする。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20071202/p1
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070726/1185459828

バカッターの祖である「テラ豚丼」事件に関する炎上についてのまとめと、「校門圧死事件」に関する炎上についてのまとめ。6年前の記事。

美しい国」を安全感に
「無法者」をネットでバカッターを叩きまくっている人に

置き換えるとほとんどそのまま今回の事件の分析として成立する。つまり、構造としては、今回のバカッター騒動は、この時点から全く変化していない。いや、多分もっと前から全く根っこの部分は変化していないのだと思う。

6年前から「苛烈な正義」はあったし、ゲーム感覚でのネット炎上はあった。今までと今回は何が違うのか。問題が、社会規範の崩壊がより身近で行われた、というだけではないだろうか。叩かれる対象が、有名人や犯罪者ではなく、隣の私達になったというだけではないだろうか。 にも関わらずうんざりするでもなくこの問題について私がgdgdと考え続けているのは何故なのだろうかなぁ。

私は何が不満で、何に怯えてるんだろう。

なぜわざわざ叩かなければいけないのか

テラ豚丼動画は、ブルジョア法規上も、うp主の自己利益としても、あり得ないことです。あり得ないはずなのに突如として現れたのがテラ豚丼です。だからテラ豚丼は、人間が自由であるということ、「縛るもの」が頼りないものであるということを暴露しているのです。だから叩かなければならないのです。

なぜ我々は、明らかに自己利益に反するようなことをしている人を見かけると不快になるのだろうか?たとえそれがどんなに愚かで不合理で悲惨な結末を招くことは目に見えていても、ひょっとしたら僕もまた「やりたいこと」をやってしまうかもしれないという恐怖をかきたてる。

規範が脅かされる時、隠されていた暴力が始まる

「生徒は学びたがっている」とか「教師は知を授ける者である」といった「永遠の嘘」に生徒が協力しているうちは、「平和」な学園を維持することができる。しかし一度この演出が崩壊し、裸の王様があたかも裸であるかのように生徒が振る舞い始めたら、教師の暴力性は隠しようがなくなる。どんなに民主的な憲法にも「例外」があるように、どんなにリベラルな学園も超えてはならない「一線」を持っている。その際に露わになる暴力が物理的なものであるか、単位や成績や退学による「おどし」であるか、警察や地域社会であるかといったことは「枝葉末節の問題である」。「民主的」教師なるものも、このようなシステムの一員として理解されなければならない。彼らは「外部」にいるのではない

http://anond.hatelabo.jp/20130905112459

寛容さや規範からの逸脱が時には必要なのはわかる。でもその為には規範が必要。

今起こっているのは、この2つの記事にしたがって簡潔にまとめるなら、「規範」という名の永遠のウソが崩れ、ソレにもとづいていた「安心感」が動揺させられたことへの報復行為としての「暴力」である。それにゲーム感覚で行われる「ネット炎上」のメカニズムが悪魔合体したものである。


バカッター問題についての論点4つ

故に、論点は大きくわけて4つになると思われる。

1 今回行われた暴力の構造は、そしてその是非はどう考えるべきか

2 なぜ規範が同時多発的に脅かされてる傾向にあるのか。
  そもそも今回脅かされた規範とはどういうものか。
  それを見なおす必要はないだろうか。

3 ネット炎上のメカニズムおよび参加者はどういうものか。
  なぜこのゲームの参加者は社会正義に寄生するのか。

4 テラ豚丼事件以降に観測された新しい問題はないか
  (「うちらの世界」など)

いまのところ、ほとんど論点が1に集中している。
しかも、構造ではなく是非のところに集中している。
はてなというのはそういう場所であるのは知っているが、
個人的には2についての論点に興味がある。

今の「規範」を問いなおさなくて大丈夫か?

細井にとっても、倫理的であるということは、暴力を振るわないことではなかった。むしろ「ダーティ」なことに手を染めるという職務から逃げないということが彼にとっての倫理であった。彼は生徒の反抗や遅刻に手を焼き、同僚教師の「無気力」に妨害され、警察の横暴に傷つき、マスコミに中傷され、管理職に見捨てられた。事件後は「指導の原則」は蜃気楼のように姿を消してしまい、ただ細井の蛮行だけが残ってしまう

「規範」そのものを検討せず、盲目的にそれを守ろうと英雄的に行動した結果、自分だけが加害者となり、使い捨てられることがありえるからだ。 むしろ、これこそがMK2さんが「うちらの世界」という言葉で表現しようとした本来の問題だろう。この問題は、ブラック企業批判と接続すべき問題であり、今までの規範では成り立たなくなりつつある何かがあるということだと思う。

バカッターの人々はまごうことなく救いようのないバカなのであるが、それとともに炭鉱のカナリア的存在として見ることも可能だろう。


結局私は何も変わらないような気がする

余談。制裁が執行済になってからあーでもないこーでもないとドヤ顔で議論していている私は何者かというと「民主的」教師という名の臆病者である。

「民主的」と「暴力的」は対立するものではない。両者は共存しているのであり、諏訪に付け加えて言えば「分業」しているのである。

どっちがよりマシかなんてことはない。ただし、「民主的・進歩的な教師が多いところほど「暴力教師」が必要となる」というのは言いすぎで、たとえば一部のエリート校や特殊な条件を備えた学校では「民主的」な演出で学園生活を満たすことが可能である。しかしそのようなケースも、やはりエリート校と底辺校の「分業」という文脈から理解しなければならない。

「民主的」教師とは、「誰か特定の教師」の暴力に寄生する臆病者のことである。

我々は、オモテでは平和主義を唱えながら、ウラでは「無法者」たちが「ダーティワーク」を担ってくれていることを知っている。

「自分は叩かないけど、まぁこういうバカは叩かれても仕方ないよね」という態度をとってる人がはてブに非常に多いのだが、さすがにこれは恥ずかしい意見だと思う。しかし、私自身、これについてどうしたらいいのかはよくわからない。

現時点では、私はバカッターの人々には強い嫌悪感を感じる。だが、より大きな視点で見ると、なにか考え方が代わるかもしれない。

私は、それが怖い。だから「仕事は楽しいかね?」も読む気がしない。
http://possession.hatenablog.com/entry/2013/09/04/112959