なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

GJ部とかゆゆ式とか

どうでもいい余談



私はいわゆる「日常系」というのががよくわからない。
わからないので、少なくとも1つは観ようと思ってる。
前前期はGJ部、前期はゆゆ式と見てきて、
今期は最初「たまゆら」を観ようと思ってた。
でも「たまゆら」は今ひとつ好みでないなと思ったので、途中で
評判が非常に高かった「きんいろモザイク」に乗り換えてみた。




ちなみにGJ部の時は
主人公視点で見ていたらあまりよくわからない話だった。
なんとなくほんわかアニメだな―という感じ。
フェチいとかなんだとかいろいろ言われてたけどピンとこなかったので
増田で質問してみたりした。

http://anond.hatelabo.jp/20130309011622

今でも、GJ部の魅力について語ってる記事があれば
どんどん読んでみたいと思ってる。情報プリーズ・・・




他に興味深い増田見つけたりもした。*1

それはサザエさんドラえもんのアニメが到達した地平に似るが、しかし教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもん長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。

http://anond.hatelabo.jp/20130302212328

「記号」化と「ストーリーの排除」はセットで考えるべきなのだという。

つまり、ストーリーがないことによって、女の子をより自由に描ける。ストーリーという、キャラを牽引・規定する要素がないことによって、描き手も視聴者もいっとき宙ぶらりんの感覚を味わうが、その代わりになんでも描ける、ってことなのだろう。

「記号化」は、キャラの単純化・希薄化というマイナス要素からすでに一周しており、そこに出来た空白に、必然性は無いけれども魅力的な要素を散りばめることが可能になりつつある。ストーリーの排除とともに、キャラの必然性も薄れ、そこに出来た空白部分に今新しい何かが描き出されようとしているとでもいうべきか。

言われてみれば、女の子の「かわいい」「萌え」を描くこと、味わうことこそが主目的であるなら、この方向への進化は妥当であるような気もする。



私はerg好きなので、ストーリーとリンクした必然的なキャラ作りに慣れていた。(女の子が、ストーリーの犠牲だとか奴隷になってる批判が昔からちらほらあったくらいだからなぁ・・・) そのため、最初こそこうした「必然性のないキャラや会話」といったものに違和感を感じたが、今ではストーリーではなく女の子同士の関係性からそれぞれのキャラがぼんやり、じわっと立ち上がってくる感じを楽しんでいる。

原作からはスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸にしか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作を脚本に翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリーが存在しないから原作破壊の心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。


2時間、13話や26話といった限られた枠内でストーリーを語ることが主目的ならば、最初から明確なキャラ立てや役割設定、目的付けを効率よく行い、ブレずに突っ走るのが一番評価されるだろう。そういう軸であればまどマギが至高になるだろう。 今期で言えば「幻影ヲ駆ケル太陽」とか「シンフォギアG」などで楽しめば良いと思う。


でも、日常を描くのであればむしろキャラの自由度、多様性、受け口の広さなどが重要になるのだと思われる。明確に規定されることなく、関係性ごとに、状況ごとに振る舞いが変わるほうが自然だろう。そちらのほうが、実は豊かなものを描いてるのかもしれない。まどマギサイコパスを描いた虚淵さんですら「碧星のガルガンティア」ではそういう演出をしていたような気がする。


まぁこういう話は前から日常系アニメを楽しんでいる方からしたら常識なのだろうけれど。一応言語化してみた。




ちなみにGJ部の時はこんなかんじだったけど、
ゆゆ式は日常系とか理解できなくても
ゆず子視点で物語を見てれば
「唯ちゃんかわいい」「唯ちゃんエロい」「唯ちゃんいじりたい」
という感覚はお腹いっぱいになるくらい満喫できるわけで、
他にもいろいろ描かれてたんだろうけれど、
多幸感で頭が麻痺してたのであんまりわかりませんでした。

*1:今でも萌えアニメを「記号化」という使い古された言葉を使うだけで、萌えアニメを批判できるつもりになってる青い人の意見よりはずっと面白い考え方だと思った