歴史マンガはいい文明

「風雲児たち」から初めていろんな歴史マンガを読みます。オススメの歴史漫画あれば教えてください

「嫌なら読むな」は子供のだだっ子

感情としては大いに共感する。

だが、ロジックではない。



こう感じることは人間らしいことだし、むしろ好ましいとすら思う。
己の感情としてならいくらでもどんどん言えばいい。 

これをロジックとして正論のように語る人間を嫌悪する。
まして、これをルールとして他人に強制する人間は軽蔑する。

この屁理屈を「ただしいこと」として使いたいなら
「嫌なら書くな」という当然の返しに
納得できる理屈をもって反論しなければいけない。

①書き手の自由を謳いながら読み手の自由を制限することは詭弁ではないか

②批判をする人を書き手とみなすなら、
 「嫌なら読むな(批判するな)」は書き手の制限である。
 書き手の制限を認めるなら、どこまでを制限するべきか。
 その制限に正統性をもたせる根拠は何か。
 そして、自分はその制限を受け入れる覚悟があるのか。

という問いに耐えるロジックを提示する必要がある。



私にはそれが出来ない。
それが出来ない以上「嫌なら読むな」は私にとって詭弁でしかない。
私は「嫌なら書くな」と言われたくないから「嫌なら読むな」は言わない。





以下蛇足。

「嫌なら読むな」と主張せざるを得ない状況があることは認める。しかしできるだけ頼るべきではない

もちろんこれは私の個人的な意見である。

ネットでは私と違って「こういう感覚」が主流なのではないかと思う。

「嫌なら見なければいい」と同じようなことは、TwitterやBlogでもたびたび起こっているが、ネットならばこの理屈は通ると思う。ネットのサービスの大半は、見たい人が情報を引っ張るPull型サービスであり、読者は「わざわざ見に行ってる」わけである。しかも個人が非営利でやっていることに対して、嫌なら見なければいいと本人が言う分には、まさにその通りだ。

http://blogos.com/article/3523/

「嫌なら読むな」という人の中に、ネットでキチガイに絡まれたり
理不尽な嫌がらせに苦しんでいる人がいるのも知っている。
そうでなくても、有名人になれば、一つ一つの批判に全て答えるのは難しいだろう。
「嫌なら読むな」といって相手を切り捨てることが必要になる人もいるだろう。



だがそれは、やむを得ないからそうするのであって、最善ではない。
まして、理屈として正当化できるものではないと私は考えている。
普通の人にはこのような理屈に頼る必要はない。というより、頼るべきではない。




「嫌なら読むな」の裏側にある非現実的な前提と、自己欺瞞


「読み手には嫌なら読まない自由がある」というのはある程度正しいだろう。
だから、その自由を放棄するのはもったいない、という程度ならわかる。
だが「避ける自由があるのだから読み手は批判するべきではない」は論外だ。


この裏側にあるのは
「複数の選択肢を持つものは常に理性的に最善の選択をすべきである」
という前提である。そんなことが可能だろうか。



これを実践できる人が言うなら「嫌なら読むな」も認めないこともない。
「書き手には批判をスルーする自由がある。
 ブロックするテクノロジーもある。
 そうやって、批判から自分の身を守るが義務ですよ。
 精神の安定を維持するのは書き手の義務です」
を完全に実践できる人が言うなら納得もしよう。

市民、幸福は義務です。あなたは幸福ですか?

だが、「嫌なら読むな」をいう人がそんな立派な(狂った)人物だった試しはない。
「嫌なら読むな」という人は、自分が実践できない前提を
読み手に対してだけ求めるという欺瞞を犯していることになる。



「嫌なら読むな」のもとになる感情を見つめなおし、その感情を上手に表現してほしい

繰り返すが、この言葉の元となる感情は極めて人間的であり、好ましいことだとは思う。だが、それなら「私は、この批判が気に入らない」という言い方にしてほしい
そして、可能なら批判をする人と可能な限り対話(バトル)を試みてほしい。

aにはどんどん書いてほしいと思う。Aが好きだと。その代わり、bにAが嫌いだと言われたら、そこで戦ってほしいのだ。Aの素晴らしさ、bの不見識を説いて、bの認識を変えてほしい。もちろんbにはそんなaの盲目ぶりを非難し、aに見えていないAの問題点を突きつけ、aの目を開かせてもらいたい。お互いに疲弊するかもしれないが、aにせよbにせよ、Aに対してわざわざ人前で何かを言おうというのだ。それくらいのリスクは負ってしかるべきだろう。
そんな面倒なことにメリットはあるのか? ある。やりとりのなかで、aはAの魅力を、bはAの拙さを再認識し、それぞれ自らの感情、思考をいっそう明確にできる。曖昧なままに表出していた「好き」「嫌い」が、輪郭を帯びてくるのだ。

http://lunaticprophet.org/archives/3352

往々にして「嫌なら読むな」は、人間がバトルを通じて成長する機会を奪ってしまう気がする。散々挑発的な文章、誤った事実やゲスな憶測にもとづいたとんでも記事を書いておいて、いざ批判されたら「嫌なら読むな」の無敵戦法は、確かにネットでは可能かもしれない。ゲーム感覚なのだろうか。




「嫌なら読むな」を振りかざす人の意見には価値がない

・・・と、いうわけで「読み手の自由」は書き手の責任を一切免責するものではない。
書き手が批判されることから守られるべき理由にはならない。
それでも書き手は懲りずにこのロジックを繰り返す。ここが不思議である。


おそらく、書き手はこの言葉を使う時「書き手である自分」を特別視している。
そして、「読み手もまた書き手になりうる」「ブログにおいて、書き手と読み手の境界はほとんどあってないようなものである」という事実を意識の外から追い出している。

たかがブロガーに過ぎぬのに、自分のことを論客とか自称してしまう人間に限って
「嫌なら読むな」って感情論をまるでロジックであるかのように、
錦の御旗であるかのように振り回している印象を受ける。


だから、私は「嫌なら見るな」という言葉を持って
何を言ってもよいと勘違いしてる人の意見には価値がないと思う。

わーい、二行で終わりの話だった。