なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「考えてはいけないことを考えてしまう罪悪感」から解放されるにはどうすればいいのか

ある記事に、個人的に、とある面で勝手に感情移入したという話。

http://anond.hatelabo.jp/20140610110652


はてなブックマークではボコボコに非難されているけれど、なんとなくこれ、「お前は間違ってる」って言って心のバリアを貼るだけじゃなくて、なんとか書き手の人が納得できるように話できないかな。 

でもわたしこれ、書き手の人は「自分の考えが正しいとは思っていないし、それどころかこういうこと考える自分はこころが狭いのかもしれない。でもそう感じてしまうことについてどうしたらいいのか」とほんとに悩んでるんじゃないかと勝手に受け止めてる。



書き手がこの話に「不公平」を感じていることに対して、それは書き手が「産休」や「有給休暇」について知らない愚か者だからだという意見はわかりやすい気もするけれど少し短絡的な気がする。

そういう話を知っていても、なんらかの事情で取れないことだってあるんじゃないかと思う。本人がそれを言い出せない性格なだけなのか、職場の空気や状況がそうなのか(特に人が少ない職場で、一人抜けてしまった状態になると、たとえ休みたくても休みたいとはなかなか言いにくい。責任が強いほど)。



「考えてはいけないことを考えてしまう罪悪感」「みんなと同じように考えられない自分への嫌悪感」

「ありがたいことに私の狂気は君達の神が保証してくれるというわけだ よろしい ならばよろしい ならば私も問おう 君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?

推測はたくさん出来るのだけれど、そこは置いといて。私がこの記事で気になったのは、人があることについて「考えてはいけないことを考えてしまう罪悪感」を感じているのだとしたら、それはどうやって解決または軽減できるのだろう、ということ。

特に、若いころって「みんなと同じように感じ、考えるべき」だという思いが強くて、そうすべきなのにできないというだけで、なんだか自分が間違ってるように感じてしまうことが私には結構あって、そういうのってすごいコンプレックスだった。

そういうつらい気持ちからいつ、どうやって解放されただろうとか、いまでもそういう気持ち感じる時あるけど、どうやって対処してるんだろうとか、そういうことについて考えたいな―と。

私自身ずっと増田を書き続けてきたのだけれど、それは、上の増田のようなモヤモヤをうまく処理することができなくて、それをどっかに吐き出さないとやっていけなかったからだと思ってる。(私はちょっと書き方とかアプローチが違うのでその点では上の増田にたいして少し文句も言いたいところもあるけれど)



これは青春時代「共通」の悩みなのだろうけれど、他人と「共有」はできないから孤独を感じるし、明確な解決策があるわけでもなくて閉塞感を覚える

これさらに拡張すると「周りと自分との違い」というか、まぁ「かくあるべし」というアイデンティティと、実際の自分がこうありたいとか自分にとって自然なものがずれているという感覚が問題なのかな、と。

その悩みは青春時代の通過儀礼みたいなもんだと思う。今で言うと、自分が人間関係のなかでひきうけた「キャラ」に耐え切れなくなるつらさとか、自分のキャラを呪いのように受け止めてしまい、そこから抜け出したいという願いとか、「本当の自分探し(自分にあったキャラへのジョブチェンジ)」みたいな自己啓発とか、いろんなものに形をかえているけれど、結局のところ、自分で自分に違和感を感じてしまうという点では共通してる。


つまりこのあたりは青少年をターゲットとしたラノベやマンガの主戦場で、自分が好きな作品だとこのあたり。ergもこのテーマが旬だったころがあった。

一般でいうと「放蕩記」とか辻村深月の本とかが好き。


ヒントとしての「ドッヂボールが嫌いな女の子の話」

で、一番わかり易いのがこのエピソードだと思う。

http://d.hatena.ne.jp/heart-canvas/20101124
http://ikuzi2.blog73.fc2.com/blog-entry-9449.html

どうして私だけこんななんだろう
みんあと同じ方がずっといいのに
同じじゃなきゃいけないのに

違いますよ先生 かおりちゃんがこわいのは
ドッジボールと「みんなで楽しく」っていう言葉です

「いい子」なんですよ
日本のいい子は団体の調和を見出さない子だ
幼いながらあのコはそれを知っている。
けれどそれはやはり勇気が欠けているということなんです。
日間にボールに立ち向かうのも勇気なら、
休み時間に一人で本を読むことを選ぶのも勇気です。
誰かがそれを教えてあげなくてはいけない。

最終的には、勇気を出して相手とコミュニケーションをするしかない、って話になってて、これが元増田の環境で通じるかというと難しいところなんだけれど、こういう話を沢山自分の中に持っておくと、いざというときに心の支えになると思ってます。

まぁあれなんです。いつまでも「papa told me」の感覚を引き合いに出すのって、社会人としてはいろいろまずいと思ってます。でもやっぱりこの「嫌なものは嫌!誰がなんと言おうと嫌!それがわたしのプライドだし、嫌と言えない自分は許せない。」に代表されるちせの感覚って好きなんだよな…。この感覚をゴリ押しするだけだとただの青二才だけど、この感覚を大事にするまもるためにいろいろと賢くなったり、そして強くなりたいとは思ったりする。

実際この作品、ちせはものすごく頭いいのけれど、直情的すぎる。そのちせの純粋さというか直情ぶりを大人が受け入れ、守ってしまう構図になっている。ちせは母親を生まれた時から失っているという陰をかかえつつ、それゆえにそれ以外の全てから守られている感じがある。 一方、ちせのまわりの他の子はそうではない。だが、それゆえに陰の部分や子供の無力さをしっており、ちせと違った賢さを見せる。そういうところが「さかあがりができない女の子」のエピソードとかめっちゃ好き。







余談 ハラスメントに負けずに自分の権利を主張することの難しさについて

サービス業においては、増田のような感覚で仕事させられてる人は結構多い気がする。特に、職場の空気がそういうものである場合は、ハラスメント的なものを疑ったりもしてしまう。この場合、本当は同僚じゃなくて「会社が悪い」のだけれど、会社が悪いという思考自体ができなくなっている可能性がある。私が2つめにつとめた職場はそうだった。物理的に誰も有給をとれない状況を会社がつくりあげており、その件について同僚たちは諦めていた。そういう状況で休みをとったり、少しでもサボろうものなら、すぐにやり玉にあげられる、そんな腐った職場だった。そこでは確実に「仕事時間・仕事量」こそが正義だった。というより、労働集約的な仕事だとだいたいこういう感覚で働いてる人結構多いんじゃないだろうか。

私はそれでも計画的に休みをとっていたけれど、休むためには勇気がいったし、普段文句をいわせないために他の人より努力する必要があった。有給は当然の権利として行使できない職場だった。私が有給を取った時など、きっと周りの人は「そうか、自分も休んでいいんだ」じゃなくて「なんであいつだけ」って思っていたであろうことは想像にかたくない。自分の権利をはなから放棄させられ、お互いに足を引っ張り合う思考に陥ってる人はきっと多い。

http://possession.hatenablog.com/entry/2014/01/17/095153


アイデンティティの問題ではないけれど、この増田には「お前が悪いんじゃない。でも、考える方向を変えたほうがいい」と言いたい。「あんたも休みをとっていいんだよ」って言うのは簡単だけれど、そうやって気軽に休みが取れないことが問題なので、その点をなんとかしたげたい。


他にも

そういう仕事をカバーする人だってことは意外と評価される。給与に反映されるまでは時間かかるけど。基本的に会社人事は遅延評価。規模がデカイほどその傾向。

あたりの話も重要かな、と。




追記。

ttp://anond.hatelabo.jp/20140611105232
こういう人だったか…。うんまぁ、いいんだ。別に。
私が書きたかったから書いただけだし。泣いてないし。