なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ぼくがかんがえた当事者意識を持つための言葉の使い方

http://syuraw.hatenablog.com/entry/2013/12/08/132004

言及されたみたいだから一応反応しておきます。

質問形式だと伝わらなかったみたいなので直接的な表現を使います。

伝えたかったのは「当事者意識の大切さを訴える本人の文章から全く(私が考える)当事者意識が感じられない」です。

これは、「当事者意識」というものを定義せず、あるいは辞書的な抽象的な意味でしか使っていないのにそれを主張の軸に据えているという技術的な問題以外にもいろんな点からそう感じられたということです。


ただ、不満ばかり述べるのもなんなので、

http://topisyu.hatenablog.com/entry/2013/12/02/122718

を参考にして、ぼくが上記のような記事を書くならどうするかについて考えてみます。


「これはほかでもない私自身についての話である」と誰にでもわかる表現を使う

「私は・・・できなかった。なぜなら・・・である」
「私は・・・する。」

「本気になれない人は当事者意識が足りない」
 →「私が本気になれなかったのは当事者意識が足りなかったからだ」


「今現在の自分自身が直面している問題である」「今の私ならどうするか」という前提で語る

「私は・・・できなかった。なぜなら「過去の自分は・・・だったからだ」」
 →「私は・・・できなかった。今の私なら・・・することによってそれができる」


当事者意識とは、「周りとの関係の中での自分の役割を自覚すること」と「自分がやりたいと思うこと」とのバランス地点であると自覚する。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090424/193024/

「反省」とは、内向して、自分を裁くことではない。
現状をありのままに見ていって、相手の行動や思いを追体験していったとき、
外側の事実として「自分が何をしたのか」正体が見えてくる。
そこから自然につきあげてきた、本当に相手に申し訳ないことをしてしまったという気持ち、
それが「反省」だ。

当事者意識というバズワード並に空虚な意味しかもたない言葉をめぐるいくつかの記事ですが、当人の内面問題だけがあーだこーだと語られてて、すげえ無意味だなと思いました。

問題が起こったときに、自分の内面だけに問題を見出す程度のことで間違っても当事者意識があるなどと勘違いしないように気をつけたい。


安易な気付きを自分でよく咀嚼せずに他人に向けて垂れ流さない

http://mubou.seesaa.net/article/381663108.html

「そうだったのか!」「今まで俺が信じていたことは間違いだったのか!」という感覚は、それが自分の根幹を揺るがすようなものでない限り、実はとっても気持ちいい。固定観念に触れない程度の気付き、というものは快感だ。覚醒欲求、とでもいうのか。それとも真実欲求、とでもいうのか。どんなジャンルでもそうだが、大体の人は「勘違いしていた自分からの脱却」「正しい知識を得たことによるレベルアップ」という感覚にわりと弱い。

受験に失敗した本当の原因をよくよく考えた結果が、「そうか、当事者意識だったんだ!」って本当にそれでいいのか。

受験に合格しないのはどんな理由があろうと必要な勉強をしなかった(できなかった)からだと思うので、その原因ってほんとに当事者意識があれば全て乗り越えられる程度の話しだったのかどうか気になります。

本当に当事者意識や本気だけの問題だったんでしょうか?ってだれでもつっこみたくなると思わなかったんでしょうか。




以上。自戒という名の自己保身を込めて。



おまけ

http://anond.hatelabo.jp/20131208161035
この記事は「適当」と書いてあるけどしっかりしている印象を受ける。

「当事者」なるものを

・ある仕事について、社会から要求されている自分の役割を過不足なく把握しようとしている人のこと。

とか、定義しようか(適当)。

この記事で完璧かどうかはともかく、少なくとも自分の責任をもって言葉を定義づけようとしているし、当事者と言うときに自分のことだけを考えてる人より視野が広い。

また、これについて「どうすればよいのか」を考えている。
こういう文章が読みたいなと思います。