なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

自分の最高の友達が神様になっちゃった人間のその後

自己承認の発生源をを外部に置くことで、自分はどれだけ叩かれても傷つかないし変わることもできないって、まどマギ(のソウルジェムシステム)みたい。
外部化した自己承認発生装置を喪失した人は屍者

私はこれを最も体現していたのがTVアニメ版のほむらであると思ってました。で、それを癒せるのは神まどかというか「母」まどかですよね、って話がTV版だったと。*1

でもその「母」たるべき存在が「神」になっちゃって、本当にもとめていた救いが永久に奪われた女の子はその後どうしたの?ってのが劇場版だと思ってます。

というわけでまどマギの話と関連あると思った過去記事を再掲。
まぁこの記事で描かれるのは「友達を神様に祭り上げちゃった子」ですが。


「ゼロ・ハチ・ゼロ・ナナ」という小説を読んだ。この中に登場するチエミという人物の自己承認のあり方が興味深かった。

彼女は自分で自分を承認することはできない。それでいて、彼女が「すごいと思っている人間の親友であること」「すごいと思っている人に羨ましいと言われたこと」という形で、自分をひとかどの人間であるとみなしている。自分を承認している。

(実際は「親友である」ではなくて「親友であった。承認されていた」であり、そのすごいと思っている人は、今となってはどう思っているかは不明である)




自分の価値を、自分が認めた人からの承認という外部に置いているから、他人からどれだけ、しかも直接に自分がおかしな人間であるかを指摘されても全く自分を省みることはない。

これは、キズつかないということではない。むしろ脆い自分を直接叩かれるわけだから深く傷つく。その度にありとあらゆる人を恨み、嫌悪する。やさぐれまくりである。それでも受けた傷は「自分を批判する人たちよりもすごいと思っている人間の親友であること」を持って癒されてしまう。

彼女は決して自分を改めようとはしない。 むしろ他人から批判される「変わった点」は「昔憧れの人から承認された要素」であり、それが自分の最大の価値であるという思い込みがあるから、絶対にそれを手放すことはできなくなっている。

チエミが自分を改める機会があるとしたら、それは「自分がすごいと思っている人」に誤りを指摘されること、あるいは改めるようにいわれることしかない。本当の解決は自分で自分を見つめ、最初からやり直すことだ。しかしそんなことができるなら最初からこんな状態に陥ったりはしていない。それは最初から不可能である




承認の根拠の在り処を、自分がコントロール可能な領域の外においてあるのだから仕方がない。少なくとも、今「自分がすごいと思っている人」が自分をどう評価するかを確かめないことには何も始まらない。彼女もそれはよくわかっている。が、あまりにこの「遠回りな自己承認」に依存して生きてきたから、それだけが自分の支えだったから、今更それを手放せない。評価のアップデートを試みる勇気も、自分で自分を客観視してみたり、他者の評価を受け入れる余裕ももはや持ち合わせていない。故に、「すごいと思っている人」の現在と出会うことをこそ、何よりも避ける。 「すごいと思っている人」の承認を誰よりも求めながら、今の自分ではそれが得られないと悲観して、その人を誰よりも嫌ってしまう。

自分で自分を承認できないけれど、他人から昔承認されてしまったから。
それがどうしようもなく幸せだったから。
いまそれに変わる幸せを望むことが出来ないから。
だから、その幸せな思い出を覆すことができない。
今日も明日もあさっても、いつまでも変わることができず、「変わった人」であり続ける。それ以外の生き方は選べない。

自分でもおかしいことは自分でもうすうすわかってる。
でも、それを曲げるのは怖い。そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだ!
…そうやって、今日もずっと「すごいと思っている人」への愛憎の狭間に囚われている。 今の時代の「眠り姫」ってこういう話かもしれんね。


なんというか、自分の自意識が強いと思う人は
「私の自意識は何で構成されているのか。それはいつから、どういうことがきっかけなのだろうか」という問い直しが必要かもしれんね。
それで、その自意識への執着がペシミズムから成り立っているのなら
そこはどんなに辛くても変えていかなくてはいけないのじゃないだろうか。


「ゼロ・ハチ・ゼロ・ナナ」においては、いろんなめぐり合わせの結果、
チエミはこの「自意識の縛り」から最後の最後で奇跡的に解き放たれる。 
なんだか「彼氏彼女の事情」で有馬くんが開放されるシーンに近いものを感じる感動的なシーンだった。強い自意識に囚われていそうな友人がいる人は是非ご一読頂きたい作品。




神話のもととなる教養づくりをサボれば、自分の頭の中で緊急事態を処理するしかなくなる。そうすればゆくゆくは自意識に押しつぶされるか、あるいは自分の外に神を見出すしかなくなってしまう

http://t.co/JOgtsPkKT3

うーん、今から考えると、高学歴低学歴問題についての話でも在るのだよな、「ゼロ・ハチ・ゼロ・ナナ」は。 ものすごく勉強が出来て外の世界に行くことが出来た主人公と、頭が悪く、その選択肢は最初から選びようがなかったチエミの関係性…。家庭環境においては、主人公の方が過酷であったが生き延び、チエミは…と考えるとキツイ。


で、まどマギの話をすると、ほむらが救われるためには、やはり神ではなく、人としてのまどかが必要だったかもね。しかし、まどかを人に戻すために、自分が人を外れ、結局は、前よりずっとひどい孤独を味わうというのがまた面白い。 

あー、なんかめっちゃ古いですけど「DESIRE」って作品好きな人とまどマギ劇場版の話したいです。マルチナ・T・ステラドビッチ。

まぁそんなわけで、いろんな人が劇場版新編での感想でほむらの成長をたたえているのですが、個人的には違和感があります。私はほむらが「能力的には」成長したが、「精神的には」特に成長してないよ派です。ほむらはずっとこういう子だよ、だがそれがいいんじゃないか!です。

ちなみに私のこの意見は脚本の虚淵さん本人によって否定されていますorz 

パンフレットの虚淵さんの言葉では、「スター・ウォーズでもエピソード1では、かわいらしい子供だったアナキンが、エピソード3でダースベーダーになるわけです。あれがやっぱり物語ってものだよなと。はたしてそれを受け入れるかどうかは、観客の方々に委ねたいと思います」とのこと。

そういえば前の記事でも書きましたが、まどマギ劇場版新編はめちゃスターウォーズ意識してますよね。

それにしてもなんで虚淵さん「救いを待つ女性なんて俺の好みじゃねぇよ」感すごかった。ほむらなんて本質的には究極の受けキャラで、自分から何かを掴みに行くなんて一番苦手なはずなのに、むしろそれがわかってて「だからこそ」やらせてる感が出まくってた。虚淵さんまじドSすぎぃ! 本来のビッチ適任である今作の杏子とか、ほとんどファンサービス要員でストーリー的にはほとんど必要ない子じゃないですか。こんなのってないよ、あんまりだよ。

http://ib-armedstrongkanon.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/bitch-1741.html
http://weekeepy.blog133.fc2.com/blog-entry-599.html

本当に可哀想にするならツルペタにしないと…というのがあるんですよね。だからロリか?ビッチか? と二極化せざるを得ない

ほむらちゃんほんとかわいそう・・・って幸せそうな笑顔浮かべてんじゃねーかww

*1:ほむらの家庭環境は、というかまどマギにおける少女たちの家庭環境はもっと分析されるべきだと思うけど、あそこまで露骨に詮索するなってメッセージがビンビンに出てると難しいのかな―