なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ドン・キホーテがやってくる

二つの記事の感想を無理やり組み合わせようとしたらぐちゃぐちゃになったので、途中から開き直って自分のための自己満足まとめ。

オタクの欲望を理解するための3つのキーワード

この記事すごい。
タイトルは「サブカルクソ野郎」だけど、それに限らずあまりに多く発生する「にわか」言及問題だの「パクツイ」騒動だの「意識高い系」だの「オタク選民主義」だのいろんなものの基礎になりそうな考え方だと思う。

http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20120703/1341329927

はてブつかうのも思想地図読むのもアニソンDJのクラブに行くのも、ニコニコ見るのもみんなディスタンクシオンだ。

もちろん、この記事読んだだけで何かすごいことが分かるわけはない。私は「わかったつもり」になってるだけで、実際はたいして何もわかっちゃいない。

でも、とりあえずキーワードとしての

差異化/卓越化/そしてヒエラルキーの逆転

を理解すれば、同種の問題を考える切っ掛けにできそうな気がする。



一定の所得以下の人間はオタク(特にコンテンツを消費する人間という意味でのオタク)化しやすい時代

お金ないけど自分をそれなりに他人と区別したい欲求は衰えてない。お金かけなくても自分をアイデンティファイできるもの、卓越化のためのプロダクトがハードからソフトへ、モノからウェブへ舞台を移した。(中略)like!と発することで応援と差異化が同時に行われ、その蓄積が他者との卓越化に繋がる。

まぁモノに対するオタクであるためにはお金要りますよね。森博嗣さんのエピソードはとても有名。

これは選択肢の問題で、金持ちはどちらも選択できるので「金持ちオタクにならず」とか「オタクは金持ちならず」ではない点に注意。ただ「貧乏人とオタク(コンテンツ消費)の親和性は高い」は言えるかも、くらいですね。



オタクの「根源」(オタクを駆動させる根本的欲望)

彼らは差異化/卓越化/そしてヒエラルキーの逆転

抽象的に言えば、「遙か遠き理想郷」を求める気持ちというか。自分が自分らしく在る所、自分が抑圧されず、むしろ上位者として、あるいはオンリーワンとして君臨できる場所、みたいなイメージなんでしょうか。


オタクたちののリアル・ソーシャルゲーム

弱い結びつきのコミュニティが増えたり、利害関係が少ないコミュニティが増えた昨今でも、古くからルールが変わらないオタクコミュニティのようなコミュニティでは、同質性の集まりであるにもかかわらず他人と違うことをアピールして一定の地位を確保しておく必要があるというコンフリクトを抱える。

同じことをやりつつレベル差をつけると言う意味では、消費特化型はソーシャルゲー、創作側としては一部のCGMサイトがそれなのかな。ニコニコやpixivで創作してる人と、ソシャゲーはまってその成果を毎日twitterでつぶやく人は、根源的には同じ欲望に駆動されてると言う感じかしら



「にわかオタク」向けの市場の誕生

ポストエヴァンゲリオン以降は様々な理由や要因でオタク化したい若者達も増えており、いわゆる「にわか」や「新参」のためのコンテンツの需要が高くなっている。
そして古参オタクと同列の世界で争えるよう、より卓越化のしやすい大量の美少女が出てくるアニメが流行し、データベース化され、どのキャラが好きかを一生懸命語りあうコミュニケーションが隆盛する。ライトノベルに始まり、ジャニーズでもAKBでも、テニミュでも、k-popでも同様だ。彼らは既存のオタク市場のパイを分け合うのではなく、新参を増やし投票のようなシステムで競争させながら消費させることで、マーケットを大きく広げた。

ここでいう「にわか」は「キャラ萌え」さえあればコンテンツを楽しめる人種という意味で、古参との上下関係があるわけではなく、接し方が根本的に違う、いわゆる「オタク界における新人類」みたいにとらえるのが多分正しい。

私はこの意味では典型的な「にわか」であり、「にわか向けコンテンツ」によってオタクのセカイを楽しめている。他の人も、「にわか」かどうかはこの視点によって考えるべきかな、と。つまり一つ一つの作品をとりあげてにわか向けかどうか論じたり、「ぼくの考えたほんとうのオタクとは」みたいなことを考えても無駄だなということがよくわかる。


「道化師と神」に支配されるオタクセカイ

批評の世界では何を参照しどうテンプレからずらされているか、ばかりが語られていた。わざと過去の作品の要素を突っ込んでいるとわかっていても、なぜその作品のこの場面にその台詞や要素を突っ込んだのか、皆わかっていながら真面目に語るし真面目に騙されようとするのである。それが作法なのである。

埋め込まれたネタを確認し、選択して笑い飛ばすことが、新しい消費の仕方であり、コンテンツとしての新しい価値として機能する。

物語のパターンをひと通り試し尽くし、「にわか」の台頭によって市場自体が変化するとかつてのSFやら音楽のセカイががたどったような変化がオタク業界にも訪れる、と。

ファルスで埋め尽くされるのは、それまでに出来上がった既存の世界が豊かだからってことだからいいよね。多分ジャンルがそういうので埋め尽くされると、そこから創作者が生まれるって構造はどのジャンルでも変わらないのだと思う。

なので「既存のセカイのなりたち」を知るものが、ソレ以降にこのセカイにやってきた人たち、「既存のセカイ」を知らない「にわか」達に対して、「古参」や「老害」として振る舞い、対立構造をとるのも、オタクあるところ常にこの流れあり、という感じなのかな。そう考えると「本当のオタクとは」とか「にわかとは」って考えても「だってそれがオタクの常だし」としか言い様がないのかもしれません。





優越感ゲームのルールにおける2つの変化

ブルデューの言う「差異化」の意図は、生まれや資産規模で縦に格差や越えられない壁を見いだすことにあった。本エントリーで扱ったのは、どちらかといえばテリトリーを横に広げながら、そこに優劣を見いだそうとする傾向がオタク達には顕著であるが、一般人にも実はその振る舞いが普及しているよねと言う主張である

コンテンツの価値はいかにいいね!することにプレミアがつくかに偏って行くだろうし、いかにマイナーでクオリティが高いモノを発見するか、というヒエラルキーの界が発生する。

「横」への拡大が何を横断するかでいくらでもバラエティ出てくるのかというと、そうでもなさそうなのが悩ましいところ。 結局のところ、格ゲーのように、強キャラみたいなのは決まってるわけで、オタクの欲求が卓越化である以上は、似たところに落ち着いちゃうのだろう。

とりあえず
①「深さより浅く広く」という点と
②「受信より発信へ」
という2つの変化が観測されている感じ。

とりあえずよくわかってなくても発信しまくって、PV数とかいいね!集めれるように成って、自ら積極的に他者に影響力を及ぼすことで優越感を感じる時代になってきているのかもしれない。もはや、知識や能力を他者に評価してもらうのを受身的に待つ時代ではないのは確かだろうな、と。


多くの人間が自己の基準を喪失する時代

ただ、この記事にあるように
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar351105

多くのエンターテインメントは「ハレ(非日常)」の体験から「ケ(日常)」の体験へと変わった。そこにはもう、エンターテインメントがかつて持っていた「特別の体験」としての聖性は失われている。

あまりに膨大な作品の山のなかにすべてが埋もれて何が良いのやら悪いのやら判然としない時代なのだ。こういうコンテンツ過剰の時代において、ひとつの座標となるものが、他人の評価である。いわばぼくたちには「ごちそう」だけではなく、ソムリエまで用意されているというわけだ。

ドン・キホーテ」の時代が来るのか?

コンテンツは、当然、多角化し、肥大化する。それはひとりの作者の手を離れ、アニメになり、漫画になり、ゲームになり、そしてエロやBLを含む同人誌ともなって、さまざまな方向に広がっていくだろう。

かつては存在しなかったような「ビッグコンテンツクラウズ」の誕生である。そのコンテンツ群ひとつで、物語も楽しめる、音楽も楽しめる、キャラ萌えも楽しめる、エロも、カップリングも、何でも楽しめるという、贅沢な「巨大コンテンツ構造物」。そういうクラウズをそれこそニコニコ動画のような「場」でシェアリングしながら、ああでもないこうでもないと情報交換し、考察と批評を繰り返しながら骨の髄まで楽しむ、それがいまの時代の最も贅沢なコンテンツの消費方法だろう

これ、なんてドン・キホーテ的世界観。
そして実際に、そういう消費が行われているよね。

自己の基準が失われる時代。コンテンツが作品単位でなくなる時代にはこういうものが誕生してしまうのかな。よくわからないけれど、面白いかもしれないな。