なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「他の人を見返す」ために努力した先に自分を好きになれることは多分ない。それが哀しい

放蕩息子12巻まで読んだ。
個人的にはべらぼうに面白いってわけじゃないけど、ジワジワしみてくる感覚。
多分この作品は、最後まで読んだ後でも何度か読み返すことになると思う。
アニメも観てみたい。


「自分を表現すること」「自分が好きな自分であり続けること」ってなんだろね。
子供時代に私はそういう悩みを持たなかった。
というか、私はそういう望みを持たなかった。
最初から自分には無理だと諦めてた。
だから、自己表現とか自由とか全く理解できなかった。
そういうことに血道を上げてる人はバカだと思ってた。
ずっと自分以外の他人の事ばっかり考えてた。


ネットで書き始めた時も、増田で書いてた。
自分のことを表現しようとは全く思わなかった。他人のことばっかり書いてた。
ようやくネットで、自分でブログ持って書き始めたけど、未だに引きずってる感ある。
後悔ってわけでもないけれど、自分に興味関心なさすぎたな、と少し勿体無く思う。


オタクは正義!って思ってるでしょ。それは入り口だ。
そこを過ぎてオタクがサブカルであり続ける事の意義を知り、
さらにオタクの一般化を憎み理解されず少数派であり続けて欲しいと願う

とこまで進行してこそ本物

http://b.hatena.ne.jp/entry/ch.nicovideo.jp/maccha-iri/blomaga/ar338723

「オタクである」ことをアイデンティティというかスティグマのように捉えて
そこにこだわるのは、なんか道が狭くなるようで私は怖いけれど、
本当に好きなのなら、そこを掘り下げていくのも良いのかもしれない。

散々馬鹿にされて、悩んでいた自分を、もしくは僕と同じ悩みを持っている中学〜大学生、若手社会人の勇気になれたら…って思って小説もブログも書いてる。逆にこのテーマしかない。オタク論も経済論もそれは「一発屋じゃないよ!ただの説教ブロガーだとバカにしてたら痛い目にあうぞ」と言って、世間一般用に社交辞令で書いてるに過ぎない。結局は挫折とか無力感とか、心理的劣等感とか孤独とか…そういうものを青春時代に持ったことのある人に「俺みたいなのだってこんだけできるんだ」って気持ちだけで書いてる。

なぜそこで「自分」を掘り下げないのか、と放浪息子読んでるテンションでは呆れてしまう。「他の人を見返す」ために努力したって、多分自分を好きになれない。


まともにライトノベルを読んでないにも関わらず「ライトノベル=若者の読む流行小説」という認識の下に「あるべきライトノベル」論をぶち、成長やら痛みやらを必須要素として挙げて規範を提示したがる類の人、ライトノベル植民地主義者と呼んでコルテス・ピサロとかと同じハコに入れることにします。 ラノベ、あるいは小説全般に「痛み」が必要だと主張する人って、実際はその「痛み」を「痛み」として感じてないんだよね。彼らにとってはそれが「快楽」だからそんなことが言えるわけで。だから、彼らが本当に「痛み」を求めるというのなら、パンチラやチーレムをこそ読むべきである。

自分の痛みを見つけるのは難しい。自分探しの道標にその際に他人が考えた「べき」論なんかを武器にしてるようじゃ、自分を見つめるのが怖いって言ってるのと似たようなもん。