なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

自分が大学生の頃にブログが当たり前でなくて良かった

オタキングの腐ったような人たちと私が勝手に分類してる人種がいる。昔の青二才さんとか今のエストニアからコンプレックスを込めてる人たちのことなのだけれど

1:俺は最近、大衆に受けている●●には冷めた目を向けている。あれはチープだ。(マウンティング始動)

2:違いがわかる俺は▲▲を楽しんでいる。(インストール)

3:▲▲はこんなにすごい。その面白さを理解し、上手に説明できるおれもすごい(錯覚を利用したマウンティング)

というパターン。
ここで大事なのは、1と2ではなく、3だ。1と2は3の導入のための流れ作りにすぎない。まず3ができる人が、1と2を戦略的に使えば効果的と言える。


ところが、べ●●氏やエストニアの人に代表される勘違い人種は、3ができないのに1と2をやる。

挑発的なことを言って耳目を集めようとする割に、その先で展開される3がしょぼい。これは読み手にとって一番腹がたつものだ。1と2が必ずしも悪いわけではない。政治などの 分野にいるイデオロギー100%みたいな人たちを除いては、何かを否定したり批判したりしても、その上できちんと納得させることができればそんなにディズられることはない。だが、何かを否定するようなことを言って、そのうえで本人が言ってることがその否定しようとしているものよりつまらないときや、その否定の理路がツッコミどころ満載の時、もうこれはヘイトがものすごく溜まることになる。

この系統の頂点はオタキングだが、かつてはてなに君臨していたハックルさんも負けず劣らずすごい人だった。


こうならないようにするためには、焦らずに自分の武器を育てるしかないと思う。


ところがまあ、高校生か、大学生の頭くらいまでは、とにかく他の奴とは違う自分、を焦って求めたがる。自分を他の人と違って特別な人間にしたがる。ツッコミを入れてくれる人がいないぼっちや非モテみたいな状況で何かを思い込んでしまったら、この罠から逃れるのは困難だろう。

そのうちさらに何割かはこういう1.2という形にハマってしまう。結局は3がなければ意味がないのに、それを理解する余裕できず、劣化版オタキングみたいな方向に走る。


でもほんと、自分が大学生の頃からブログやツイッターでなんらかアウトプットしてキャラを立てることを求められていたら、ほぼ百パーセント、オタキングどころか青二才やエストニアで拗らせた人よりさらにひどいことになってたと思うので、本当になくて良かった。

今の若い人たちは本当に大変だと思うがネットで事故死せずに生き延びて欲しい