なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

まなざし村とは、「忖度」が大好きな人たちのこと

どうでもいい話なので雑に。

駅乃みちかは萌え絵が批判されたのではなく公共の場への性的記号の露出が批判されたんだが、反フェミは「日本なら駄目でスイスOKなのか」と認知を歪ませるから困る。初音ミクやイカ娘から許容範囲の存在を理解すべき

みたいなコメントあるけど「公共の場へ」「性的なものを感じさせる」っていう時点で批判するのは妥当っていう基準はどこから出てきてるのかわからん。


結局、声のでかい人たちが「私たちにとって不快でない表現を心がけろ」みたいな曖昧な話を堂々と求めてるわけで。 しかもこのコメントしてる人「俺だけがそう言ってるわけじゃなく世間の総意がそうなのだ」みたいなことを疑いもしないよね。


こういう「忖度」を求める態度を平気でとっておきながら、「忖度」という行為を批判するのはちょっとなぁと思いますね。


もちろん、政府のような政治権力者と権力がない一般人は違うってのはわかってますが、でもこの人達、権力装置のように振る舞ってるよね。「俺達の気に入らないものを出してきたら潰されても仕方ない*1」という言い分が出てくる時点でもうおかしい。この振る舞いが、明確な自粛を求めている、忖度を要求しているのは明確なところです。自覚しているかしてないかはともかく、というかしてないんだろうけど。


「自分が不快なものを不快と表現する」だけでとどまれないで暴走する人たちが「まなざし村」

私は、不快だと思うものを不快だと表明する権利は当然なくてはならないと思ってる。ただ、そこで「不快に思う人がいるから潰す」みたいな発想の人はホント嫌い。


ネオリベラリズムかどうかはわからない。ただ、この言い分が「過剰な忖度や自粛を求めている」ものであり、そのことに対して無自覚すぎるっていうのがダメだと思う。そりゃ嫌われるよ。当たり前じゃん。


相手からしたら「権力」として振る舞ってるように見えるもん。対等だったらまずこういう振る舞いにならないでしょ。「私は、不快だと思う」って意見表明から始まるし、それにたいして相手の対応を見るでしょ。そういうのすっとばして「不快だ→潰せ」とか「不快だ→(自分の頭で考えて私の思うとおりに)削除して欲しい」みたいな言い分を平気で言う人達がまともなわけ無いでしょ。

いわゆる「まなざし村」として揶揄される人たちが理解してないかすることを拒んでること

自分たちにとって不快なものを見たくない。それはもちろんOK。

自分たちにとって不快なものを消そうとする。これだって、危うさはあるけど自分たちの意見を表明して相手と交渉したりするなど正当な手続きを取ってやるのはOKなんだよ。わかってる?



まなざし村と呼ばれる人たちがアウトなのは

・自分たちにとって不快なものを消そうとする。
・しかも、相手の意見をまともに聞こうとせず自分の基準を一方的に押し付ける形でそれを実現しようとする。
・しかもその権力的行為に対してなんの責任の自覚もない。(主語がいつもデカい)

という三拍子が揃ってるから。



「私は不快だ」で留まる人は「まなざし村」とは呼ばれるべきではない。

「私は不快だ。潰すべきだが相手の言い分を聞こう」で留まる人も、まだ「まなざし村」ではない。
「私は不快だ。潰すべきだ。相手の言い分はもうわかってるから必要ない。その上で相手が自主的に、忖度して対応すべきだ。私には何の責任もない」とすっとぼけてるとアウト。


こういう行為を平気で言ってる人が、文科省のパン屋の話にしたり顔で同意してるのはさすがにドン引きする。


ちなみに、悪いのは「まなざし村」だけではない

「まなざし村」と呼ばれる人たちが過激化しすぎた反動なのか、それとももともとそういう人達がいたから「まなざし村」が過激化したのか、そういうにわたまは私は興味が無いけれど。

「アンチフェミ」「反ポリコレ」で凝り固まってるような人たちも同じだ。


・不快感の表明の段階の人間を「まなざし村」扱いする雑な人たち

・「あーあーアンチフェミがまたなんか言ってる」とすぐに会話を拒否する人たち

こういう人たちも、邪魔だから発言せずに黙っていて欲しい。

*1:ほぼ「わたしたちが潰す」と同義の言い分を婉曲的に表現している。