なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

言葉の文字面に引っ張られて思考する人が何をいっても的はずれなことにしかならないと思う

「不寛容社会」って言葉を聞いた時に「おっ不寛容な社会だな。不寛容がいけないんだな」くらいの思考で喋りだす人いますよね。その結果、はてなブログの一部の界隈みたいに「批判すること自体が良くない」とか、「ただしさマネジメントだー」と言い出す人が出てくる。それでいいのか本当に。



別に本人がそれで満足ならそれでもいいんですができれば「不寛容社会という言葉が意味するものは実際どういうものだろう。本当にこの言葉って実態を表すのにあってるんだろうか」あたりを考えてみたほうがまだ意味がある議論ができるんじゃないかなと思う。



というか、多分「議論」や「検証」をするつもりが全くないから、自分が「良い」と思ったらそれがそのまま正解になっちゃうんだろうな。



なんか




例えば「マイルドヤンキー」って言葉に対してごちゃごちゃ言ってる人の中で、
ちゃんと原田さんの本を読んで内容を確認した人どれだけいた?
あれがそもそもマーケティング用語であって消費や生活様式を分類したものだって話をあんまり考えずに
その語感だけをもって蔑称だーとかそんなものはいないとか吠えてた人いっぱいいたよね……。


確かにネーミングが最適ではないとは思うけど、
自分がその語感から得た、正確でない理解を元に反発を感じたってそれただの自己満足でしょ。
そういうものについて、よく考えずに「なるほど」といって食いつくはてブのみなさんがたとかなにこれハーメルンのブログ書きなの?みんなどこに行こうとしてるの?って時々えええええ。っていう気持ちになる。



まぁ言葉って作り出した人の意味どおり使うべきなんてルールはないので、その語感からいろんな意味に派生していくのはむしろ正しいっちゃ正しいんだけど、それにしたって、ほんとに語感から得られるものから全く動いてない人たちを見るとなんというかモヤモヤしたくなるのでモヤモヤウォーキングしよう。




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※読まなくてもいい部分

不寛容社会と「ただしさハラスメント」をからめて話をしている人いるけれどしっくりこない。
「ただしさハラスメント」という言葉が意味しようとしてるものは、本来的には「ただしさにかこつけて暴言を言う人」に関しては「ただしいかどうかに関わりなくマウンティングや人を見下すような発言はダメ」「正しいことを言ってるときは人を見下すような発言をしても良いと思ってる人がいるけれど、その時でも人に向かって話をする時にそういう表現はダメだよ」ということだと思う。あくまで私の意見ですが、これって不寛容社会とは問題が全く別だと思う。不寛容社会って言葉の問題の根っこは不寛容ということそれ自体にあるのではなく、ディスコミュニケーションが生み出す現象にすぎないと私は考えているから。不寛容社会の根っこにあるのは「対話や交渉・折衝」という緩衝地帯がないこと。これは「話せば分かる」という楽観的な話ではありません。というか今の状態だと話しても絶対にすれ違う。「落としどころがゼロかイチになる」というような極端な意見がすんなり通るのは、構造的になんかおかしいだろ?って話です。つまり「不寛容社会」というのは「自分側の立場のことしか考えない、深く考えない人たちの意見が大きくなっている」ということです。「不寛容」という言葉はミスリーディングであると感じます。「ろくにコミュニケーションの努力しないで自分の欲求かなえたい人たちが元気な社会」でしょ。「送料無料が当たり前」の常識で佐川が死んでるみたいな話が最近ニュースになってるけれど、「コミュニケーションについても最低限のコストを払うこと(あるいはリスクを負うこと)を覚悟する」ことがない人たちばっかりになった状態が今の「不寛容社会」でしょ。そういうコストやリスクのことを一切考えずに気に入らないものを気に入らないって言ってるやつがなんも考えずに群れて文句をいったら、それに対してまじめな人が応じてしまってるような状態。で、それがネットにとどまってる間は不祥事くらいの話で収まってたのに勘違いしたバカがリアルでも同じノリをやらかすと。SEALDSもそういうノリから対して進歩してなかったし、ああいうものをもてはやしてる間はますますダメになるよね。 それぞれの社会レイヤーごとに、それなりのレベルや責任みたいなものはやっぱり求められるべきだと思う。馬鹿なことをいいたいなら匿名でなんの影響力も保たない、情報だけをやりとりする幽霊になるべきだし、そういう人間が力を持つようなことがあってはいけない。ネット炎上のし掛け人は0.5%しかいないなんて話も出てきて少しずつカウンターの動きが出始めてるけれど、ここでとにかく「不寛容」というキーワードにするのではなく、「コミュンケーションコスト」の話をちゃんとしないと、ますますネットはこういう迷惑な人たちの楽園になると思うんですよね。


つまり、とらえかたによっては不寛容社会どころか(本来たいした発言権や影響力を持つべきでないような人たちに対して)寛容すぎる社会・過大評価しすぎる社会であるということも言える。こういう状態で「不寛容社会」という言葉を文字通りにとらえて「不寛容はダメだ」みたいな話をしているような人は全く役に立たないどころか有害になるわけですよね。

というわけで、こんな風に「不寛容社会」だの「マイルドヤンキー」でもなんでもいいのですが、「言葉」を中心に考える癖がある人は気をつけるべきだし、そして大事なのは言葉じゃなくて、「言葉が意味しようとしているもの」ですよというはなし