なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「非モテ」のキャラ化、ファッション化

社会問題として捉えることも可能な問題構造を茶化して「芸」にするのって、「オネエキャラ」のあり方に似てる、と思った。受容のされ方としてはアリでも、問題のあり方としてはナシだな

ブックマークコメントありがとうございます。


正直、良く考えずに「非モテ」という言葉を用いてしまったのでツッコミありがとうございます。しかし「非モテ」という問題のあり方、についてはコメントだけではよくわからないのでそのあたりについて導線を提示していただけないでしょうか。「非モテ」でググっても、「非モテタイムズ」とか「非モテ女子」ばかりひっかかって有益なまとめに突き当たらないのです・・・。


そもそも非モテとはなんぞや?がよくわかってない俺ガイル

非モテという概念は、本来個人の問題からスタートして、それに付随する社会問題を論じるための、両者をリンクさせる感じの概念だったのかな? 中間集団がすっ飛んでる感じがなんだかセカイ系っぽい印象です。 そこがわからないので、私が非モテについて論じても、そこから先の議論はすべて推測であり場合によっては無意味になってしまうような気がします。

非モテ」という言葉を大々的にタイトルにしてる本が三浦展しかないのだけれど、私は三浦展が嫌いなので、他におすすめの本や記事があったら是非教えて下さい。ちゃんと読んで勉強します。


最近は見かけない気がするけれど、非モテは現状どうなってるの?

非モテは少なくともはてなにおいては普遍化というか、悪い言い方をするとバズワード化してしまったのか。guri_2さんが言ったように「解決」したわけでは断じて無いと思う。

ttp://d.hatena.ne.jp/guri_2/touch/20120610/1339320980

しかし、議論は次第に存在力を失っており、人の記憶から風化している? むしろ駆逐不能な構造として認識されはじめ、「一般化?」「市民化?」して低い地位でなら受容されている状態と捉えるべきか。こうなると、殊更に非モテを特別な問題として騒ぎにくくなる?


・というか、今は社会問題としては非モテよりさらにひどい「ブラック企業」問題が、個人問題としては「結婚・子育て」の話題が強すぎて、その中間である非モテってものが存在感を失っているだけか。

・人口比として非モテそれ自体には「興味ない」「どうでもいい」人が大多数になると、非モテ論壇な人々は、否定もされないが、主張もできない状態になっているということか。場合によっては、メイド喫茶ブームの時のように面白半分で見られているような状態になるのかもしれない。


このあたりも推測でしかないので教えていただけると嬉しいです。




非モテキャラ」「ファッション非モテ」についてどう思いますか?

・そうすると、この外部からの視線を内面化してしまうというか、ぶっちゃけ大衆の無思慮な茶化し視線を積極的に受け入れて自らそれを芸として演じる「芸人」が登場して、戯画化された非モテを演じる「キャラ」が登場するのかしら。


・いやまぁ、青二才は素でTPOが理解できないだけだと思うけれども。しかしやってることは「ファッション非モテ」ぽいとは思う。 どうせファッションなら、どうせキャラを演じるなら、もうちょっとマシなものを使えと思うのだけれども。 ある程度みんな自分の本質に合致したものをファッションとして選ぶということか。

僕はかつて、次のように書いた。「彼らは、自らのセクシュアリティすら、芸風と化してしまう。『そのキャラクターを好きな自分』そのものを戯画的に対象化してみせる言葉が『~萌え』だ」と。そう、「萌え」とは、対象のキャラクター化によって成立するのみではない。それは萌え主体をもキャラクター化の磁場に引き寄せてしまう言葉なのである。

「~萌え」という自称は、自らの嗜好に対する揶揄や嘲笑を、キャラクター化によって先取り的に笑いのめす(「シャレ」や「ネタ」にする)ことで、セクシュアリティによるキズつきを防衛しようという身振りではないのか。つまり、「萌え」という言葉には、共感と同程度に防衛のためのコミュニケーションによって強化される、という出自があるのではないか。

重要な事は、それが個人的感慨にとどまる限り、「萌え」は成立しにくい、ということである

ttp://d.hatena.ne.jp/guri_2/touch/20071101/1193884359


・欲望にコミュニケーションが先行する

・価値共同体は失われてコミュニケーションの共同体のみが前景化する。このとき、キャラクターに萌えることは、萌えている個人をもキャラ化することを意味するだろう。それは同時に、「欲望」そのものを個人の同一性の記述とみなすことであり、ここにもすでに再帰性は浸透し始めている


なんというか、青二才の場合、この「萌え」が「ヘイト」に転化したようなものであるし、「非モテというか、オフ○コしたいという欲望」を個人の同一性の記述として利用しているように見えるけれど、このあたりってどうなんでしょう。よく考えたら、青二才ってすべてが「信念」「能力」ではなくてひたすらに「己の欲望」をアイデンティティにしてキャラ作りをしているよなーと。 だから外からみたらぶれまくってるけれど、本人の中では全くぶれてない事になってるのかな、と。