歴史マンガはいい文明

「風雲児たち」から初めていろんな歴史マンガを読みます。オススメの歴史漫画あれば教えてください

批判と非難の違いについて

私のここ最近の記事を振り返って思うのだけれど、批判記事とそうでない時では文章の調子がぜんぜん違う。誰を批判するでもなく自分の意見を自分の責任で書く時はいろいろ慎重だし、留保つけたり周りくどい言い方をしたりしてるのに対し、誰かさんを批判するときは、表現も簡潔で、直接的だ。 文章がとてもいきいきとしていると自分でも感じる。人を批判する時ってなんか変な脳内物質出て快感なんだろうなーと思う。

人は人を批判する時視野が狭くなり強気になり脇が甘くなって極めて死にやすくなる

でも人を批判するときはよくよく気をつけないといけない。
人を批判する時って本当は一番危険なのだから。


理由は2つあります。


まず1つめ。人を批判する記事を書く時、そこには「批判モード」の人間が集まるからです。そのモードの人間から自分自身を守る手立てをちゃんと意識してないといけません。


人を批判する時、そこに理由をつけると、「この場では、****という条件を満たすものは殴っても良い」という許可を与えていることになるからです。周りの人に批判許可証を発行してるようなものです。では、その許可証を得た読み手が、批判した対象だけを殴ってくれるかというとそういうわけではない。 

トンカチを手にした子供は手当たり次第いろんなものを殴りたがるのです。AさんがBさんを批判する記事を書いたとする。その記事の読み手は確かにまずBさんを叩くかもしれない。でもその次は、読んだばかりのAさんの記事もトンカチで殴れないか試します。そこで、脇が甘いと、読み手はAさんを殴り始めるのです。

この時、どちらがより叩かれるかというとAさんの方です。なぜなら、Aさんは、すでにBさんを殴っているからです。 誰かを殴ってしまった人は「人を殴るなんてひどいことだからやめろ」という主張ができません。真っ先にそれを破ったのは自分です。しかもその殴る行為を正当化する理由をこしらえたのも自分です。それで殴られても自業自得ということになります。

あなた・・・『覚悟して来てる人』・・・ですよね
人を始末しようとするって事は
逆に「始末」されるかもしれないという危険を
常に『覚悟して来ている人』ってわけですよね・・・


もう一つの理由。それは、批判する時、どうしても脇が甘くなってしまうから。

人を批判する時、よほど訓練というか失敗の経験を積んでいない限り自分の脳内では「相手に勝ってしまっている」んだよね。 実際はその勝利は錯覚、つまり自分の脳内だけの現象であり、誰もそれを認めてないのだけれど、とにかく本人は勝ったつもりになっている。だからこそ強気になる。そこで、油断が生じる。


結果として、通常の精神状態だったら持っているはずの慎重さを失う。普段ならやらかさないようなポカをやらかす。そういうことを心配する回路が壊れてしまっちゃうんだと思う。「だって、もう勝ってるんだし。何を警戒するの?」ってことなんじゃないかな、と。

もう何も怖くない

ところが、実際はその1で述べたように、警戒すべきは相手だけじゃない。「人を殴りたいモード」の人が集まってくる。 また、自分は勝っているつもりでも、相手の戦力を見誤っているケースも多々ある。 「勝利の錯覚」によって、いろんなことが抜けてしまうと、本当に危ない。


こうした危険をちゃんと理解せずに、ただ「批判の快感」だけは求め、いざ自分が叩かれた時に発狂する人はバカとか青二才とか言われても仕方ないでしょう。「何かを批判するとはどういうことか」ということをちゃんと理解しなければいけない。 ここ最近、自分の記事の脇の甘さにうんざりしたので、もう一度確認しておきたいと思います



批判と非難の違いについて

…と、ここまで書いた上で、私が書くよりわかりやすいと思うので「知的複眼思考法」の「批判と非難の違い」について説明している部分を引用します。

新三年生向けのゼミでは、毎年五月祭で発表された先輩たちのレポートを学生たちに読んでもらうことにしています。「なるべく批判的に読みなさい」という指示を与えて、ゼミで報告してもらうのです。

たいていは厳しい批判が返ってきます。たとえば、高校生が親を尊敬しているかどうかを、「親が欲しい物を買ってくれるかどうか」「自分が家にいると心が休まるかどうか」「小遣いをくれるかどうか」と関連させた分析を読んだ時です。

このレポートでは、親が欲しい物を買ってくれるほど、また、高校生が家にいると心が休まると思っているほど、高校生は親を尊敬しているという結果を紹介し、そこから「親を尊敬しているというのは、小遣いを上げてやるというくらいではダメで、心やすまる家庭づくりが大切であり、たまには欲しい物を買ってやるという感じだろうか」という解釈をしていました。

この部分について、読んで報告した新三年生の一人は「全体的に何を言っているのか分からない」というコメントをしています。そして、「全体を通して、いまいち明確な印象が得られなかった」といい、「こじつけが目立つ」と結論づけました。同じように、他のレポートに対しても
「議論の出発点の前提が曖昧である」とか「一見もっともらしい結果が示されているが、心情的に疑問を持った」といった批判が提出されます。なるほど、辛辣な批判が浴びせられるわけです。五月祭のレポートを読むときには、当の執筆者である四年生にも出席してもらいます。その文章を書いた先輩たちは、後輩たちの批判にたじたじになることも有ります。


しかし、これらの批判が非難ではなく、建設的な批判となるかどうか。そこがポイントです。このような批判は、ほぼ毎年のように繰り返されます。毎年繰り返されるということは、批判をするゼミの学生が、翌年には、次の代の学生たちに同じように批判されるということを意味します。つまり、三年生になり、このゼミでの勉強を始めたばかりの時には、他の人の書いたものを容赦なく批判できるのに、いざ自分たちで同じように書く段になると、やはり後輩たちから批判される部分を残しているということです。

このような批判の繰り返しは、何を意味しているのでしょうか。批判をする側にとどまっている間は、先輩たちの書いたレポートのなかに容易に欠点をみつけそこを衝くことができる。しかし、その批判の目はまだ自分たち自身には十分向けられないということです。つまり、三年生の批判の多くは、自分たちが書く側に回った時の立場からの批判ではなく、まだ読むという立場からの一方的な批判であるのです。そのため、ある意味では無責任に相手の欠点を見つけ、そこを非難することが出来るのです。

学生たちは、私達から「なるべく批判的に読みなさい」とか「批判的なコメントをつけなさい」と言われると、どうも相手の欠点や欠陥を探すことを「批判」だと思いがちです。そのような態度で本や報告書に接する場合、ちょっとした欠点を見つけると、「しめしめ、ここを指摘してやろう」と、自分のことを棚上げして、その発見に喜んでしまったりします。そして、「あいまいだ」とか「こじつけだ」といった辛辣な批判をして満足するのです。

そこで、このようなスタイルの批判を見つけると、私は学生たちにこう言います。「論理の飛躍があるというのだったら、どうすれば飛躍を埋めることが出来るのか。その代案を考えなければ十分な批判とはいえないよ」「心情的に疑問が残るというのなら、どのような疑問なのか。またそれが分析者の示した結果と合致しないのはなぜか?」「あいまいだというのなら、どうすれば議論を厳密に出来るのか。 曖昧さを取り除くためのアイデアはなんだろう」といったことです。

問題点を探しだすことで止まってしまっては、「批判的読書」は思考力を鍛える半分までの仕事しかできません。考える力をつけるためには、もう一歩進んで、「代案を出す」ところまで行く必要が有るのです。そして、私は学生たちに「自分だったらどうするか」というところまで考えて、そして考えたことを考えたままにしないで、必ず紙に書くことを強調します。思考を厳密にする上で、書くことこそが、もっとも基礎的な営みだからです。

最初から「ここまでやって初めて批判と呼ぶに値する」「批判する場合、相手の間違いをしてきするだけでなく、自分の意見も述べる必要があり、その意見は当然他の人の批判的な目にさらされる」ということを意識しておくと、人の意見を批判する時、少し慎重になれるかもしれません。



まぁ、そうはいっても、私はどうしても感情的になってこういうことを考えず、ただただ気に入らない殴るためだけに記事を書くことは今後も多々有ると思います。そういう時は、この記事のリンクでも貼って「お前あの時こんなこと書いてたやろ」「お前のそれただの非難とか難癖つけだぞ。ちゃんと批判しろ」とツッコミを入れていただけると助かります。