なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

2月14日

ノーポジって素晴らしい。体も心も軽い……誰とも争わなくていいなんて久しぶり…もう何も恐くない━━━!
(ただし現状は何も変わらない)


今日のメモ

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140213/259721/

マスメディアは、その姿を明らかにしつつある「ネトウヨ」に気を使いはじめているのだ。「圧力」などという物騒な言葉を使うまでもなく、「市場」のパイの大きさを見せつけるだけで、商業メディアは、わりあいに簡単に門戸を開放する。 たぶん、10年もすれば、「ネトウヨ」は、市民権を得て、公式の政治勢力に格上げされるだろう。たぶん、ネトウヨの皆さんも、このまま数を増やして行けば、似たような地位を確保することになるだろう。

ネット右翼は今後も増え続けるのだろうか。
それを考えるには、1960年代に左翼が盛り上がった理由を考えてみると良いのかもしれない。つまり。「モテ」あるいは「ロマン主義」である。 今で言えば「モテ」よりもっと手前の「居場所」の問題かもしれない。こういう政策や経済より手前で、それゆえに若者にとって切実な話。これに関し、若者たちにとって、ネット右翼より魅力的な代替ルートがない限りは、増えるんじゃなかろうか。



http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100412/213957/

・自分が救われたい=信仰=「俺が貧乏だからなんとかしろ」
・政治的に正しくありたい=正義=「貧乏な人をほっとけない」
・反抗したい=ロックンロール=「反抗するとロックンロールだからモテる」

3つの心情を束ねるのが「下からの反抗」という図式で、あとは「反抗する対象」としてロマン派だと「既成価値」とか「良識」、フロイトなら「性を抑圧する意識」、マルクスなら「資本家」、三原順尾崎豊なら「大人」、ジェンダー論なら「男」「異性愛」「家父長制」、ポストコロニアル批評なら「宗主国」「植民地帝国主義」を選ぶことになる。じっさい、ロマン派美学(個人の、世界への反抗)以降、マルクス(貧者の、世界への反抗)、フロイト(抑圧されたものの、抑圧するものへの反抗)、植民地独立運動(植民地の、宗主国への反抗)、現在のサブカル論(下から目線)にいたるまで、ここ200年以上、文明社会は「下からの反抗」に取りつかれている。ものを考えるイコール下からの反抗、というくらい当り前のことになってしまっていて、私ももちろんその図式をなかなか抜け出せない

もうね、生き生きしてますよ、この「政治的に正しい仕分け作業」をしている最中の**は。なにしろ「自分が救われたい」(信仰)、「政治的に正しくありたい」(正義)、「反抗したい」(ロックンロール)という気持ちを炸裂させるロジックを持ってますからね、生き生きしてないはずがない。でも、「下からの反抗」だったはずの**は、自分が天下を取ったらこんどは、言論弾圧や収容所を産んでいくのであった

こういう歴史を知ってて、なおネット右翼なんてものに本気を出せるかというと、もうね…。
基本的に、若い人は反抗したがります。特にまだ守るべき者がない人はそうなります。ネット右翼は別に右翼でも保守といった立派な信念などありません。「何かに反抗したい」か「ロマンが欲しい」人たちです。そして、それでいいと思います。自分にはなにか立派な主義信念があってそれに殉じなければならないとか思いつめない限りは。自分で責任をとれて、かつ誰かの迷惑にならない限り、若い内にそういうのにのめりこむのも悪くないと思います。戻ってこれるならね。
ただ覚悟がないなら、筋金入りの活動家の方々には、できれば近づかないほうが良いと思います。ただのトレンドやファッションではすまなくなります。本当に大事なことだけは、周りに流されないで自分で考えましょう。
私がネット右翼とか左翼の人から距離を取りたいのんは、本質的には右翼も左翼もファッションでまとえるほど生半可なものではないと私が思うからです。気軽にそちら方向に入っていける人というのはすごいなーと思います。



http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100427/214178/

「信仰・正義・ロックンロール」をやりたい人が、1990年代になると「政治的な正しさ」を旗印に、ジェンダー論やポストコロニアリズムに大挙して乗りこんできました。 そうすると***を好きな男に向かってマッチョとかマザコンとかロリコンとか罵倒するだけでなんか知的学問的なことをした気になる人、というのも出てきます。 このかたたちがおっしゃる内容は、たぶん間違っていません。間違ってはいませんが、善悪の判定が完全に機械化されています。大義だけがあって自分の頭は1ミリも使っていません。「大義がある人」ですし、「作品を特定の方向からしか見ることができない人」ですし、そして「道徳を共有しない敵(その判定は自動的に可能)は攻撃していい」と思っている人です。彼らは「間違ったことを言う人たち」ではありません。多くのばあい、言ってる内容は正しいのです。彼らは「正しいことを、自動的に、声高に言う人たち」です。人より拡声器に似ています

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100601/214721/

 竹本サンは自分の私情を公憤と思いこんで、善意から熱弁を振るったのです。「地獄への道は善意で舗装されている」という、あの善意からです。竹本サンはなぜ、そう簡単に私情を公憤へとすり替えてしまったのでしょうか。それは竹本サンの手近なところに、わかりやすい「大義」が転がっていたからです。竹本サンは、「カッとなって手近な」大義を手に取って、熱弁に及んでしまったのです。「なんでもよかった」のです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20091124/210472/

「負の教養主義」は、「旧・教養主義」にたいする反感・揶揄のみでなりたっている。「サブカルチャー教養主義」は旧・教養主義同様に、「こんなことも知らないで音楽(漫画、アニメ)を語るな」という、知識による恫喝の形をとったが、「負の教養主義」は、「そんな(漫画、アニメ)なんか知らないよ」と言ってのけることに本意がある。恫喝ではなく、同調圧力なのだ。「負の教養主義」の主語はおそらく、「私たち大衆」なのだと思う。そこに「私個人」はない。

連中は時に、この高校の管理体制や体育教師批判をすることもあったが、連中自身の根性の悪さ以外に、この頽廃の原因があろうとは思われなかった。