なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ランドリオール23巻 「なんて幸せな理由で俺は生きているんだろうか」

六甲「教授に救われた。恩ばかりが増えてゆく。
 恩をかえすために生きなければ…
 なんて幸せな理由で俺は生きているんだろうか

契約上の「義務」ではなく、
お互いに顔のある個人の間でのみ生まれる「恩」のために生きるって、いいな。
今から見ると理不尽に見える封建制が成り立っていなのは、
契約ではない「恩」という観念でつながっていたからなのかな、とか思ったり。
今の社会は、契約上の義務として、「恩」を売られるような事案もありほんとにせつない。

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この作品は、現在連載しているマンガの中で一番好きな作品。
ひとつひとつの台詞に「おっ」と唸らされる。
後の展開まで読んで、その言葉に意味があると思い知られ、ため息が出ることもある。
何度読んでも飽きないというか、読む度に気づくことがあって楽しい。

この作品は、とにかくすべてのキャラクターがイキイキしている。
キャラクターであって、ただのキャラではない。

あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

一方の「キャラクター」とは、「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの、と定義できる。

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/4_a77d.html

自分の取替えのきかなさ、すなわち「固有性」には、突き詰めてしまえば根拠はない。つまり記述不可能だ。
(中略)
キャラクターはこうした固有性をどこかに秘めている。しかしキャラにはその意味での「固有性」は乏しい(斎藤環「キャラクター精神b分析」)

 

すべてのキャラクターが、固有の物語を背負っている。
具体的には、登場人物は騎士・王家など上流階級、およびその周辺の人間である。
己の出自に厚いバックボーンを持ち、その重荷を背負って恥じぬように生きようとする。
みんな、己の価値を知り、役割と責任をを受け止めながら、生きようと必死だ。
高校生くらいの学生たちが、誇りを持ってそれぞれの地位に見合った自覚と責任感を持って自らの意思で判断・行動する。
この判断・行動・人間関係のありようがいちいち格好良い。

15巻あたりの「学園騎士団」のエピソードは、こういう格好良さが詰まっていて悶えます。


こういう人物が中心に物語が描かれるなか、六甲という登場人物はやや特殊な立ち位置にある。
「ニンジャ」という立ち位置なのだ。
普通のニンジャは己の意思を持たず、ただ主君の命令に従い、生命を捧げる。
実際そうやって当然のように「消費」されるニンジャもこの作品中では描写される。

六甲自身、そうした生き方に疑問を持っていなかった。
そんな六甲にとって、己の生命はあくまで命令遂行のための道具であり、
必要とあればいつでも投げ出すことができるもの、執着するようなものではなかった。

しかし、主人公の家は最初から風変わりな家であり、ニンジャである六甲を家族のように扱う。
それでも六甲は頑なにニンジャとしての分を固持し続ける。
23巻まで来ても、それは変わらない。それが六甲にとって自然なことなのだ。

それでも、積み重ねというのんはあるもので、
少しずつ己の意思を表明したり、己の生命も守らなければならない、とかんがえるようになっていく。
冒頭で引用したのはそんな六甲の変化の過程の1コマ。
23巻まで見てきた者としては、とてもグッとくるのであります。

とまぁ一人ひとりにこういうずっしりしたエピソードが詰まっていて、
それが同時並行的に起こっているので、すごい楽しいです。
しかも23巻は個々のキャラのエピソードだけでなく、全体の物語に動きがありものすごく刺激的。
というわけで、まだ読んだことない人にはぜひぜひ手にとって読んでいただきたいです。
もしこれから読まれる方にはkindle版おすすめです。

 

最初の3巻あたりまではあんまりおもしろくないですが、それも後々への伏線。4巻以降はもうたまらんですよ。
この作品読んだことある人とお話したいです。
この記事読んで、ランドリオールを読んだことある人いたらコメントとかくださると嬉しいです。