なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

2月10日

明日も出勤なのよー(涙)


今日のメモ。

緑のルーペさんがWebでマンガ連載してるのよー。
http://www.poco2.jp/comic/love/
なにげに「ガーデン」も完結していてもう単行本まで出てたのを知ったのでポチりました。


緑のルーペさんについては過去に書いた「ブラパ」の感想がある。
http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20130208/1360304776

キャラづくりに成功してしまった故の苦しみ、綺麗な世界で綺麗な部分だけで付き合っていくことの限界とか、私にはよくわからんのだけれど、この人達は何がしたいのだろう、とは思う。





この時は未読だったけど、斎藤環の「キャラ化する若者たち」にも関連ある感じ

かけがえのない世界の、かけがえのない自分に対する信仰を失った個人が、こころの安定をキャラにたくそうとするなら、キャラの記述=相互確認を可能にしてくれる再帰的コミュニケーションの中に、繰り返し見を投じ続けるほかはない。ただコミュニケーションのみが、自らのキャラを維持してくれる

「つながりやすいもの(記述可能なもの=プロフィール)でつながる」をおしすすめると自分も他人もキャラ化・固定化するしかない。キャラに頼ったコミュニケーションは、自らのキャラ(再帰的同一性)を維持することを至上目的として行われ、繰り返し繰り返し自分の「キャラ」に言及し、「キャラ」を固着させるため、必然個人の変化と成長を妨げる、と。んで、それは成熟の疎外をもたらし、みんなが魔法少女化する。それでうまく行けばいいけれど、基本的に袋小路なので、そのうちソウルジェムがにごってみんな死ぬしか無いじゃないというね。

記述しきれない固有性ではなく記述された「キャラ」のみを媒介にしたコミュニケーションは誤解やノイズを含まず、完璧な相互理解をもたらす。しかし同時に「そこで理解してしまった自分」=キャラへの強い固着をもたらさずにおれない

たまたま否定的な自己イメージに固着してしまった個人は否定的な自己イメージのリアリティを再確認することによってしか、自己愛を維持できなくなってしまう。自己否定的な自己愛も、おそらくここに起因する。

というあたりを読んだ上で、それでも「炎上キャラ」「過激な発言をして注目を集めるキャラ」を演じるつもりになれるかというと私には無理だな、と。 「本当の自分はリアルにあって、リアルで理解してくれる人がいるからネットでは作りもののキャラでいい」って人ならいいのかもしれないけれど。実際、意図的に炎上を繰り返す人は、「①妙にリア充アピールをすることが多い」か、「②そうでない場合、やたら自傷的な傾向をしめす」かに二極化している、という印象がある。 前者はネットとリアルを切り離して運営してるのだろうし、後者は炎上することによって自己確認をするという感じかな。


という感じで、「キャラ」ってなんかろくでもないししんどいなと思うけれど、今のコミュニケーションではこういうのが必要とされて、それに適応しこうと無理してる人が結構いるのかな。こういうのをコミュニケーション能力だと考えている人と、私のコミュニケーション観は多分全然あわない。

私は「キャラ」よりも、「自分にとってしっくりくる基準」が欲しい。 自分にとって頑張らなければいけないし、頑張って維持したいと思うもの。 それが自分にとっての支えになると思ってる。 その内の一つがDDRにおける努力であって、これが維持できないのは自分にとってかなりダメージが大きかったというのは前にはなししたとおり。


コミュニケーションに関しては、基本的に対話の作法とかを重視したいと思ってるけれど、根本的なところでは、こういう話だと思ってて、結局相手と対等あるいは、お互いに役割があるって意識をお互いが持てない限り無理だと思ってるところある。之と比べたら、対話力だの知識だのの重要性はずっと低い気がする。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm16760285

接点がなければ、せめて、生き方の沸点を合わせろ!

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130509/p1

人間は似た原風景を持ち、似た世界に生きていないと、一緒に生きるのは凄く難しいのです。その難しさを前提にしないと、ダイヴァ―シティー(多様性)など絵空事です。