なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

戦わないコミュニケーションのための考え方、あるいは現代における論語の使い方について

今日は時間がないので引用メインで。

対話とは、「戦わないコミュニケーション」である。だが、こういうと誤解されることが多い。自分と相手の考え方が違う時、その違いを押し殺すことによって戦わないのだ、という誤解である。

全くの逆だ。対話とは「違いを前提としたコミュニケーション」である。違うものを接触させることによって、新たな価値を生み出そうとするコミュニケーションだ。だから、自分との相手との「違い」はむしろ際立たせなければならない。「違い」を鮮明にし、相手の考えの正統性を認めようとすることによって、戦わないのである。

そして、相手の考えの正統性を認めるというのは、相手の考えをそのまま受け入れるということではない。相手の考えを価値観の段階にまでさかのぼって検証し、「自分はそうは思わないが、相手がそう思うのも(相手の価値観に基づくならば)もっともだ」と認められるかどうかということ。これはクリテイヵルな姿勢が必要だ。

(中略)

大先生の言葉であろうと決してそのまま受け入れはしない。そういうクリティカルな姿勢が対話には必要である。ただ、クリティカルな姿勢には2種類あるので注意が必要だ。

1つは自分と相手の考え方が違う時、相手の考え方だけを批判的に検証するというもの。これは「戦うコミュニケーション」の基本姿勢である。お互いに相手を徹底的に批判することによって、それぞれに向上を目指すのだから、それはそれで意味のあることだ。だが、価値観が多様化した「わかりあえない時代」において、このやり方は危険である。また、このやり方では問題解決も相互理解も遠のくことが多い。

もう一つは、自分の考えと相手の考え方が違う時、自分の考えも含めて批判的に検証するというものだ。双方の主張、主張の背景にある発想、発想の根底にある価値観を比較検証しながら徹底的に検証する。これが「戦わないコミュニケーション」、つまり対話の基本姿勢だ。

相手の考えを無批判に受け入れない。しかし自分と相手の考え方が違う時、自分の考えも無批判に放置しない。これが対話の出発点になるのである。

前者が従来の「はてな」方式ですね。はてなトラックバック文化を復興させるとして、これからは後者の方式に移っていけるのかどうかが興味深いです。


論語の読み方

上記の中略部分が面白い。

この部分では、教育の世界では、このクリティカルな姿勢(つまり教師のいうことを無批判に受け入れるのではなく、自分の考えと比較しながら、納得できるポイントを探すような考え方)を極端に嫌悪する人が多いこと、そして、その背景に儒教的な伝統があるという通説が紹介される。しかしこの通説は誤りであると著者は言う。

たとえば儒教の大元である「論語」の読み方について著者はこう説明する。

孔子の言葉を「ありがたい教え」としてただ鵜呑みにするべきではないと言う。弟子と孔子の考え方が違うところに注目し、両者の意見を対話的に解釈したうえで、歩み寄りのポイントを探りながら現代におけるバランスを考えながら読むべきなのだ、と。論語が今でも通用するのは「弟子と孔子との対話形式になっており、その対話の中から、読んだ人間が自分なりの答えを見つけるヒントになっているから」だという。だから、何かの正解を探すための本としてただ読むのではなく、自分なりの答えを見つけるヒントを与えてくれる本として使いこなしなさい、と。


そりゃそうだ。単に孔子の言葉を絶対の論理、金科玉条のように語るだけでは、現代の環境と一致しない。変化を認めなければ、すぐに硬直化して、古臭いオヤジたちの老害的意見のひとつに成り下がってしまう。 教育勅語だってほとんどは道徳的に良い事が書かれているらしいけれど、あれを対話やひとそれぞれの受け止め方を認めない絶対の論理としてしまったのがいけなかったのだろうか。よくわからない。


というわけでこれは面白い考え方だと思った。というか言われてみればあたりまえだなそりゃ。

今でも実業界の偉い人とかが「若者は孔子を読めやゴルァ」「孔子はこういってるんだ従えゴルァ」(※穿った見方をしています)って引用してるのを聞くとなんかこう、UZEEEEEEEE!って気持ちになるのですが、弟子と孔子の両方の主張をきちんと理解した上でなら、そこから自分の納得できる答えを見つけてもいいんだよって言われると、読んでみようかなって気になる。

そういえば、渋沢栄一の「論語講義」は、かなり当時の情勢に合わせた独自解釈が入っていて面白いなと思ったし、それでも今の時代とはちょっと違う考え方もあるかな、と思った。偉い人も、うのみにするんじゃなくて、理解した上で、その時の自分なりにアレンジして使いこなしているんだろうかな、と思うと興味深い。





その他参考。

今の日本でのコミュニケーションの基本的なマナーは「自分の言いたいことを大声でがなり立て、相手を黙らせること」である。相手に「私を説得するチャンス」を与える人間より、相手に何も言わせない人間の方が社会的に高い評価を得ている。そんな社会でコミュニケーション能力が育つはずがない

「相手に私を説得するチャンスを与える」というのは、コミュニケーションが成り立つかどうかを決する死活的な条件である。それは「あなたの言い分が正しいのか、私の言い分が正しいのか、しばらく判断をペンディングする」ということを意味するからである。
ボクシングの世界タイトルマッチで、試合の前にチャンピオンベルトを返還して、それをどちらにも属さない中立的なところに保管するのに似ている。真理がいずれにあるのか、それについては対話が終わるまで未決にしておく。いずれに理があるのかを、しばらく宙づりにする。これが対話である。

http://blog.tatsuru.com/2013/12/29_1149.php

この人に限らず、うちの国の(もしかしたら世界中の)組織のトップには、自ら招いた失態について、素直に謝罪できないメンタリティの持ち主が多い。理由は、たぶん、彼らが、「簡単に謝る人間」だと思われたくないと考えているからだ。「ちょっとしたことで尻尾を巻く弱腰な男の命令に、どこの部下が従うというんだ?」 と、ボスは、外部に向けての謝罪の問題を、組織内におけるガバナンスの問題に読み替えて対応している。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20140130/259093/

こういうのをコミュンケーションの正道だと思ってる人は多分結構いる。「戦って勝つ」「勝てばいいんだ勝てば」「勝つために有効なのは声のデカさとか威圧感だ」「謝らなければおれの勝ち」「誤りがあったとしてもそれを認めないのが俺の戦い」こういう風に考えてる人が幅を訊かせてたら、そりゃコミュニケーションなんてバカバカしくなるからほんとにやめて欲しい。

私は本を読むのが大好きだった。物語を読んでそのせかいについて考える。
主人公のその後や話の中では描かれていない家族や友人のこと。そしてその世界がどうなっていくのか、考えは尽きなかった。小学校に入ると、わたしは大好きな本について原稿用紙120枚分の感想を書き、先生に5枚にまとめろと怒られた。でもどうしてもできなくて結局提出しなかった。
国語の時間に訊かれるのはきまって「作者の伝えたかったことは?」考えることを制限される読書なんて全然楽しくなくて、いつしか国語が大の苦手に成った。でも今は、制限なんてひとつもない……
「わたし、久しぶりに読書しました……はじめて一晩中夢中になって……」

なんかココ最近、アウトプットについて、制限を加えるような印象を与える記事ばかり書いてるけど、真意としては全く逆なんですよね。ただ、好きなモノについて平和に語り合うために、最低限知っておいてほしいことをまとめているつもり。「ウェブニタス別冊」で渡海さんが書いてた「評論社会における平和の創設」みたいな話がしたかったというね。

ただ、それが伝わってるかどうかはすごく不安。伝わらなかったらそれは自分の説明力不足だし、後出しで真意をいうのはダサイと思ってるけど、やっぱり伝わってほしいなという気持ちもあり複雑。


というわけで、 ttp://bulldra.hatenablog.com/entry/2014/01/30/224211 に深く同意。感想はこちらに書きました。(まとまってなくてスミマセン。)