なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

文章でのアウトプットには「考えること」と「伝えること」の2段階がある

相変わらず何か勘違いしてる人がいるけど「何を伝えたかったか」より「どう伝わったか」が重要なんだって……

おとといアウトプットとインプットの違いについて書いたけれど、「アウトプットにも2段階あるよね」というお話。
例のごとく長いけれど、いいたいことはタイトルがすべてなので、後は興味がある人だけお読みください。


追記

そしてその先に、実際に行動すること、というアウトプットもある

ブコメで指摘頂きました。からっきし失念してたのでタイトルを少し訂正。
ほんとにそうだ。伝えるだけじゃなくて、そこから実行するのが大事。

アウトプットは「何を伝えたいか」がスタートであり、「どう伝わったか」がゴール。

「何を伝えたいか」がなければスタートすらできない。この点をよくよく考えることはもちろん大事。すごく大事。でも、これは本当に大事だけど、「すべて」ではない。これはあくまで目的を示すもので、これを考えただけで実際に目的が達成できるわけではない。目的地にたどり着くためには、ちゃんとそこまで移動しなくてはいけない。ここから、言葉を介して、伝えたい相手に「どう伝わったか」まで考えるのが遠足…じゃなくてアウトプット。



自分へのアウトプットが「考える」、考えたことを他人向けのアウトプットに整えるのが「伝える」

言い換えるなら、「何を伝えたいか」を作りこむのが「考えること」で、「どう伝わったか」の結果を少しでも望み通りに近づけるのが、「伝えること」、です。

この2つはほぼ間違いなくずれる。一致することはまずない。「何を伝えたかったか」の部分は一人だけでできるが、「どう伝わったか」は自分と相手の共同作業だからだ。いや、むしろ、受け取る相手が主体で、伝え手である自分はそれをサポートするしかできない。しかも、この「伝える」という作業にはその場だけの関係ではなく、過去の文脈や相手の知識の程度などいろんな変数が関係する。

大事なことなので二回言うと、
「何を伝えたかったか」の主体はもちろん自分だ。
だが、「どう伝わったか」は相手が主体である。

最初から「何を伝えたかったか」が100%伝わることなんてないと思っておいたほうがいい。



まずは「何を伝えたいか」を一生懸命「考える」ことが大事

池上彰さんは、「伝える力」において、まずは自分が言いたいことを自分でしっかり理解することの重要性を説いています。自分で理解できていないことが相手に伝わることはない、と言い切っているほどです。それほどまでに、まず自分自身に対してしっかりアウトプットすることが重要だということですね。

こういう話もあります。

良い文章とは
①自分にしか書けないことを
②だれが読んでもわかるように書いた文章

単純な「禿同」とか「氏ね」という反応は、確かに2.は満たしてはいる。しかし①を満たしていないため、反応の元となった表現を行った「話し手」の方にはある程度の価値を持ち得ても、その反応を行った「返し手」の方にはあまり価値が生じない

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50421483.html

①つまり「話の価値」を作りこむのはこの「考える」段階ということですね。

詳しく説明しないというか、これは別記事で改めて説明するつもりだけれど文章って「自分固有の領域」「一般常識」「相手固有の領域」と「自分の言葉」「ありきたりな言葉」「相手の言葉」のマトリクスで分類したら面白いなと思っていて今回は簡略化のために「一般常識」と「ありきたりなことば」を除いて考えると、

1 自分固有の領域のことを自分の言葉で書く(私のブログはこれか、一般常識のまとめ、程度)
2 自分固有の領域のことを相手の言葉で書く(上で書かれている良い文章はこれ)
3 相手固有の領域のことを相手の言葉で書く(海外の論理をそのまま持ってくるようなパターン)
4 相手固有の領域のことを自分の言葉で書く(「デマこいてんじゃねぇ」が典型例)

って感じになるかなと思ってる。

伝えたいことって、たいてい「自分固有の領域」だと思うけれど、これって自分にとっては自明のことだから案外言葉にしにくい。それをしっかり明確化するのが大事なんじゃないかな。


「考える」段階では、自分の定義で考えてもいいし、自分なりの言葉を使ってもいい。伝えるときに相手がわかる言葉で伝えられるのであれば

http://d.hatena.ne.jp/next49/20140112/p2

イケハヤ書店:「定義」は個人的なものである:辞書の定義を信じる、残念な人たちの主題は「物事について他人のいうことを鵜呑みにせず自分で考えよう」だと思います。ですが、以下の主張には「じゃあ、どうやって言葉を用いたコミュニケーションをするの?」と素朴に思います。

「定義は個人的なものである」という境地に至った人からすると、「定義は辞書によって与えられる」と考えている人の話は、退屈でなりません。

以前にも「定義すること」と「定義した言葉でコミュニケーションすること」、「伝えたいことを多くの人が理解できる用語を用いて説明する」ことをごちゃまぜにして、しかも「定義」という言葉を「概念を区別する行為」「概念を区別する説明」「辞書にのっている用語の意味(多く受け入れられている定義)」の意味でフワフワつかっている議論を読んでモヤモヤしたのでこのエントリーを書きました

個人的にはイケダハヤトさんが、自分の頭の中で、どんな言葉を使って考えようが「考える段階」であればそれは自由だと思うんですよね。

もっとも、みんなが共通で使ってる言葉で考えるほうが良いと思うんですけどね。なんのために定義というものがあるのかといえば、そういうものを定義したほうが議論しやすいし、インプットの効率が良いからですよね。にもかかわらず、あえて自分の言葉や自分の定義をつかう必然性が全く理解できないので、ただただ不思議だなぁ、と思うだけです。だって、そんなことをしても、インプットの効率が落ちるだけだし、どうせ「伝える」ときにみんながわかる言葉を使わなければきちんと伝わらないのだから手間が余計にかかるだけなんじゃないかなって思うんですよね。 最初からまともにインプットする気も伝える気もないのかな?って考えてしまうのですが、そのあたりはイケダハヤトさん独自の理論があるんでしょうね。理解できそうな気がしませんが。

確実に言えることは、イケダハヤトさんは「考える」ことは好きなんだろうけれど、それを「伝える」の部分で全く努力をしないし、この部分を明らかにそれほど重視していないということです。

だからといってイケダハヤトさんの話には全く価値がないかというとそうとは限らない。正直①と②はもちろん両方そろっていれば理想なのでしょうが常にこの両方を求めるのは大変です。②を犠牲にしてでも①をつきつめるというのも、一つの戦略としてはありなんじゃないかな。「考える」の部分が秀逸なのであれば、①を満たすから価値はあるのだと思います。イケダハヤトさんに関しては②を評価している人はそんなに多くないのでしょうが、①の部分の評価について意見がわかれるのでしょうね。

さらにいえば、文章だけの話ではなくなってしまいますが、やはり行動、実践にまさるアウトプットは無い。「やってみて、その姿を見せる」ことができるなら、あるいはその体験から得られた話をそのまま伝えることはそれだけでも強いと思います。*1「自分が正しいと思うことを実践して、結果を出している」という部分の価値は高いと思います。*2


「考えること」は楽しい。それに比べると「伝えること」は面倒で無味乾燥に感じるし、努力しても望んだ結果にならないことばかりでやってられねーって気分になる

「考える」の部分は結構面白いのに「伝える」の部分で努力するのを極端に嫌う人いますよね。なぜそのような努力をしなければならないのか、と。俺がどのように書こうが勝手だ。 書き方にケチをつけるな。ちゃんと行間を読め。 誤読する奴が悪い、という主張を繰り返す人が多くなっていて、ちょっと心配です。

気持ちはわかります。私もそういうの、めんどくせーなーって思うので。大体あってりゃいいじゃんって。わかる人だけわかってくれればいいよ。他の人がどう思おうが「考えてることはあってるんだからいいだろ」って開き直りたくなることって結構あります。

「どうしても伝わってほしい相手」とか「誤解されたくない人」がいなければ、「考える」の時点で満足できます。自分だけがわかっていればいい。文章にするのは一応形として残しておきたかっただけで、後で自分が読み返してわかれば、他の人からどう思われようがかまわない。まぁ誤解された人に絡まれたくないから一応増田で書いておくか―ってなってた時期もあります。(逆に、増田でも伝えたいと思ったことは自分なりに伝えるための努力してましたが)

あるいは「うまくいえてなくてもわかってくれる人がいる。この人たちだけわかってくれていればいい。この人たちがわかってくれる程度に丁寧にかけばいい。初見の人が見てわからなくて文句を言っても知ったことか」という心境になることもあります。というか、それ以上を求めると大体失望することになると思ってます。


なんといっても、「努力しても、伝えたい人にすら伝わらない」ということが多いです。そういうときに、「伝わる」ことへの期待が大きすぎるとほんとむなしい気持ちになります。普通の人は、慣れてくると自分の伝える努力と、伝わるかどうかの結果のバランスが理解されてくるのですが、その前に「ネット疲れ」とか言って退場しちゃう人いますね。


「こんなにむなしいなら、俺は伝えるための努力などしない」



サウザー様論法に走る人がいても責められないかな、と正直思ってしまいます。少なくとも、常に「伝える」ための最大限の努力を求めるというのはナンセンスだなと。



どの程度「伝える」ための努力をするかはその人次第。ただし、努力不足が原因で伝わらなくても怒っちゃだめ。

で、伝えるのめんどくさいよねーっという話をしたので、次はなんでそれでも努力しなきゃいけないんか、って話ですが、そんなものはありません。目的あるなら努力すればいいし、目的ないなら努力しろっていってもどうせしないでしょ。

努力する義務なんてないです。伝わらなくてもいいなら、努力しなくてもいい。どの程度努力するかは、その人が誰に、どの程度伝わってほしいかと思うか次第。だから、伝わってほしいなら努力するし、伝わってほしくないなら努力しなくてもいい。
ただ、明らかに努力が足りなくて伝わらなかったときに逆切れするのはだめですよ。文句言われることくらいは覚悟してね、というだけのことです。


余談だけど、このあたり、「なんで勉強しなきゃいけないのか」と同じ。勉強しない人も、したくないなら勉強しなくてもいいです。やりたくないものをやる理由(やらなくて良い理由)を人に求めたって、そんなものを与えてくれるような人はいません。それでも親や教師が必死に答えようとしてくれたなら、子供の問いに真剣に向き合ってくれる大人はとっても大事だから一生大事にしなさい、っていうくらい。その代り、後で文句言ったり、救いを求めても、誰も同情してくれないし、誰も助けてくれないかもしれないよってことだけです。大人はうそつきだとかちゃんと説明してくれる大人がいないとかドヤ顔で文句いう前に、「じゃあ勉強の代わりに何しようか」とか「ほんとに勉強しなくていいって思ってるの?」って自問自答してみたらいいと思うし、勉強以上にやりたいことがあるのであれば、親にそのことを伝える努力をすればいいと思うよ。「やりたいこと」や「やるべき理由」があるなら努力できるんでしょ?ってね。


「伝える」ことのはじめの面倒くささを乗り越えたところに対話とか蓄積が生まれる時がたまにあって、それはとっても嬉しいなって

じゃあそのうえで、なんで伝える努力したほうがいいと思うかというと、そりゃ、そうしたほうがいいことがあるからです。少なくとも私にとっては。

めったにないけど伝わったらうれしい。伝わるような人がいることがうれしい。なにより、はじめはめんどくさいけれど、一度伝わったら、その相手は結構自分の努力を認めてくれて、次からは少しくらい伝え方がへたくそでも、読みとってくれたりする。定期的に自分の意見に耳を傾けてくれたりする。そうやってある程度蓄積が生じたら、気軽にコミュニケーションがとれるようになる。

この「だんだん楽になっていく」「だんだん楽しくなっていく」という感覚を知っていると、そういう状態になるために最初だけは、ちょっとめんどくさいけど努力しようかな、と思ったり思わなかったりするという話なのでした。



「コミュニケーションしたいなら」ネットもリアルもあんまり変わらんような気もするけどそうでもないような気もしてて自分でもよくわからない

まぁあれです。ネットでもコミュニケーション対一の関係に細分化してみたら現実とそんなに変わらないです。長々と書きましたが、ここまで書いてみて、「それってリアルといっしょじゃん」「そうだよ()」というだけの話だなと。ネットとか文章の話になると、コミュニケーションに特別ルールを持ち込む人がいるけれど、コミュニケーションはコミュニケーションだよ、人とどう接するかって話だよってところは変わらないはずなんですよね。

それでも。それでも、リアルと比べたらネットでのコミュニケーションって私にとっては圧倒的に楽なんだよな。
なんでリアルだと、コミュニケーションするのってあんなにしんどいんだろう……。




余談。はてなについて。

この記事で言っている他者とは「自分の考えを自分の言葉で語るだけでは伝わらない」人のこと。「自分の考えを自分の言葉で語るだけで伝わる人」はコミュニケーションにおいては他者足り得ない。まぁ本当のところは話題によって友人が他者になったり、自分になったりするわけだけれど、他人に対して、常に「自分の考えを自分の言葉で語るだけで伝わる」ことを求める人は、だから他者を求めていないひとだということだ。そういうひとたちだけ集めて、その人達にむけて何年アウトプットしようが、それは自分自身に対するアウトプットが上達するだけで、他者へのアウトプットは上達することにはならない。

んではてなの話。

なんか「俺mixiで数年間記事を書き続けてきたんだぜ!」「twitterでは人気者なんだぜ!」みたいなのを文章書きのキャリアかなにかだと勘違いして意気揚々とはてなに乗り込んできた人がいたけれど、はてなは「自分の考えを自分の言葉で語る」だけの人はあんまり評価しない場所だよなぁ、って思うんですよ。(もちろんmixitwitterがみんな自分向けのアウトプットしかできない所だといいたいわけではなく、その人がそういう場所として使い続けてたというだけなのですが)

「自分の考えを自分の言葉で語りたいだけのやつははてなに来るな」とは思わないです。むしろこういう人がどんどんはてなに来てほしいなと思います。そのうえで、せっかくはてなに来るんだったら、はてなってどういう場所か理解して、はてななりの楽しみ方も覚えてもらうといいなって思ってます。

はてなってネット上でも特に「他者とのエンカウント率が異常に高い」場所だと思います。読んで伝わらなかったら「伝わらねーよボケ!」ってツッコミが容赦なく来る。言葉遣いが汚いのはどうかと思うし、伝わる人にだけつたわればいいって思ってる人にはめんどくさい場所だけど、逆に言えば、知らない人が頼んでないのに自分の記事読んで「伝わらなかったことをわざわざ教えてくれる」場所でもあります。逆に伝わったら伝わったって感想を届けてくれる人もいる。一番ありがたいのは「こういうところが変だと思う」「私はあなたと違ってこう考えた」といってくれる人。 こんなん、リアルだったらかなり親しい人しか言ってくれないよ。そういう反応が時々もらえたりするわけで、これが楽しいと思える人にはほんまに楽しい場所です。 

いつもいつも他者向けに記事書くのはめんどくさい。普段は「自分だけのことを自分の言葉で語る」ってのをやりながら、時々自信がある話とかを他者向けに言葉を伝えてみるチャレンジとかやってみるといいんじゃないかな。

*1:これはこれで経験至上主義に成っちゃいかねない怖さがありますが

*2:これはこれで、やり方について賛否両論あるでしょうが。結果至上主義とはまた違うのですが詳しく説明しようとすると話がそれてしまうので省略!もうさっきからgdgdだな…