なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

なぜ江戸時代の為政者は武士に漢文を勉強させたか

日本史が必修になるとからならないとかで話題の今日この頃。日本史なんかよりよほど必要性を疑問視されている科目が古文と漢文ですよね。個人的には大好きだったんですが、嫌いな人はとことん嫌っていました。

そんな状況を感が見たかどうかはわかりませんが、今年のセンター試験で出された評論の問題はとても面白いと思います。

斎藤希史「漢文脈と近代日本」という本からの出題。


近世幕藩体制下における古典(特に漢文脈)の学習の制度的意味や、それが士族階級に、どのように影響していったのかを説いています。

古典詩文の能力を問う科挙は、士大夫を制度的に再生産するシステムであったのみならず、士大夫の思考や感覚の型――とりあえずこれをエトスと呼ぶことにします――の継承をも保証するシステムだったことになります。

「なんで学校で古文とか漢文を勉強させられるのか」「これ何の意味があるんだ」というのは生徒のみならず教師ですら答えられない人がいると少なくないとおもうのですが、そのヒントになりそうすね。

 

これだけでも面白いと思うんですのが、さらに猫も杓子も大学受験するようになった現在でも、このカリキュラムを維持する意味あんの?って問いかけにも使えそうな部分があります。

論語」ひとつを取ってみても、そこで語られるのはひととしての生き方であるように見えて、士としての生き方です。「学んで時に習う…」と始められるように、それは「学ぶ」階層のために書かれています。儒家ばかりではありません。無為自然を説く道家にしても、知の世界の住人であればこそ、無為自然を説くのです。乱暴な言い方ですが、農民や商人に向かって隠逸を説くのではないのです。

今でいうと、最初から大企業で出世して管理職になったり、官僚を目指すという人ならともかく、それ以外の人間は、古典や漢文の学習なんて意味ないんじゃないの?少なくとも義務教育なんかでやらなくてもいいじゃないの? という人の声が聞こえてきそうですね。

いろいろとゆとりがなくなっている時代ですから、「教養」の一言で納得できるようなものではなくなってきているのかもしれません。どうでもいいですが、「ゆとり」という言葉がバカにされる世の中大嫌いです。お前らが余裕なさすぎるだけだろ。


これに対して、当時はちゃんと明確な意義・目的が提供されていたのですね。

しかし当の学生たちにとってみれば、漢文で読み書きするという世界がまず目の前にあり、そこには日常の言語とは異なる文脈があることこそが重要なのです。そしてそれは、道理と天下を語る言葉としてあったのです。漢文で読み書きすることは、道理と天下を背負ってしまうことでもあったのです

松平定信による、寛政以降の教化政策によって「学問吟味」が始まり、それ以降ますます立身出世の手段が武芸から学問へ傾いたことは有名ですが、当時は立身出世のためにいやいや勉強するだけのものではなく、今でいう英語学習および、その英語で読むコンテンツによって世界への目が開かれるのと同じような効果があったのではないかと思われます。




他にも当時「文」と「武」はアイデンティティ的に絶対的に相容れないものであり(今の文科系と体育会系の対立みたいなものですね)、これに対して、ある概念を挿入することで「武」の価値付けが転換され、近世後期に「文武両道」という新しい武士の方向性=アイデンティティが成立するようになった過程などは、大変面白い。

思想家(儒者)が、国を支える教育制度について考え、実際に影響力を及ぼしていたことがよくわかります。今の教育制度は、ちゃんと教育を受ける人間のアイデンティティにまで配慮されているでしょうか。



とかいろいろ考えると面白そうなので読んでみたいのですが、Amazonでは在庫なし。


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