なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「やりがい搾取」が「やりがいの押し売り」に発展している構造について

「仕事の楽しさ・やりがい」と「給料」を結びつけてはいけない

前々から思うんだけど、なんで楽しいことと権利として保証された給料をもらえないことが問題として切り離されているの?そこの議論が欲しいわ!

単なる表現ミスだとは思うのですが一応ツッコミ。

両者は切り離されているのではなくて、むしろそこがつながったものとして認識され、「交換可能なもの」になっていることが問題だと思うんですよ。「仕事楽しいだろ?仕事勉強になるだろ?だから給料低めでもいいよな」という言い分がまかり通ってるのがおかしいってことですよね。これでいいですよね。


「やりがい搾取」は何が問題なのか

その辺りを指摘してるのが、「脱社畜ブログ」で有名なdennou-kurageさんですね。せっかくだからブログじゃなくて著書から引用します。

 「やりがい」を重視し過ぎると、この仕事における「働いた分の給料をもらう」という関係を歪めることになりかねない。「やりがい」が仕事で一番重要だということになると、仕事の対価が給料ではなくて、やりがいによって支払われるようになるおそれがあるからだ。

 たとえば、「好きなことを仕事にできているから、お給料は安くても幸せなんだ」といっている人を見たことはないだろうか。その人自体が満足しているんならそれでいいように思えるかもしれないけれど、これは実際にはかなり会社側にとって都合の良い考え方である。「やりがい」さえ与えてしまえば、その人は安い給料でも会社のために一生懸命働いてくれることになるからだ。これは労働者に対して夢や希望を与えているようで、実際にやっていることは搾取にほかならない。給料や労働時間のような仕事の本質の話を避けて、やたら「やりがい」ばかりを強調するような会社は、このような搾取を狙っている可能性がある

(中略)

「好きなことが仕事なのだから、給料は安くてもいい」という理不尽な考え方は、労働力のダンピングを招く結果にもなりかねず、みんなを不幸に導く考え方だったりもする。

『脱社畜の働き方 p87』

*1


「やりがい(を与えて)搾取(する)」が許容されるようになった結果、経営者に「やりがいの押し売り」を行うインセンティブが生じているのが現状

ちなみに上の日野さんの話は、考え方の基本であるとは思うのですが、現状はさらにタチが悪いようです。
経営者や上司に寄る「やりがいを感じていることにする」「やりがいを感じていないやつは共同体から排除する」という感じの「やりがいの押し売り」が横行し、それが浸透した結果、「同調競争」という形で社員がそれを積極的に引き受け始めている。精神の自衛のためとはいえ、それが良いものであると自分に言い聞かせるようになっています。結果として、この「押し売りされたやりがい」を受け入れないと、会社にいることすらできないというような悪質な状況までなっているようです。



筆者自身は、「やりがいの搾取」とは、企業の意図によって生み出されている側面が十二分にあると考えている。なぜならば、一見自己実現的な「働き過ぎ」を作り出すことによって、企業は以下に述べるような利益を確実に得ているからである

(中略)

つまり、日本企業は、表2において示したように、安定雇用の保障や高賃金という対価なしに、労働者から高水準のエネルギー・能力・時間を動員したいという動機を強く持っている。

そして、その実現のためには①趣味性②ゲーム性③奉仕性④サークル性・カルト性などの要素を仕事に付加して、「自己実現系ワーカホリック」を生み出すことが、極めて好都合なのである。

安定雇用や賃金などの即物的対価以外の目的で働いてくれる「自己実現系ワーカホリック」たちは、企業による「やりがいの搾取」の好餌となっているのである。

経営者だけでなく、教育やマスコミにも大いに責任があり、学校教育からの見直しが必要

そして、若者たちの中にも、こうした「やりがいの搾取」を受け入れてしまう素地が形成されている。

「好きなこと」や「やりたいこと」を仕事にすることが望ましいちおう規範が、マスコミでの喧伝や学校での進路指導を通じて、すでに若者のあいだに広く根付いている。(①の趣味性の素地である)。

しかし実際には企業組織内のヒエラルキーの底辺部分に位置づけられて、何の権限も与えられないことも多い若者にとって、裁量制や創意工夫の余地がある仕事は、希少価値を持つものとして憧憬の対照となっている(②ゲーム性の素地)

また、日本の若者のあいだでは、自分の生きる意味を他者からの承認によって見出そうとするためか、「人の役に立つこと」を求める意識が極めて高い。(③奉仕性の素地)

さらに、「夢の実現」などの価値に向かって、若者が自分を瞬発的なハイテンションにもっていくことによってしか乗り切れない、厳しく不透明な現実も歴然と存在する。(④サークル性・カルト性の素地)

これらの素地につけいる形で、「やりがいの搾取」が巧妙に成立し、巻き込む対象の範囲を拡大しつつがるのが現状だと考えられる。

これホントに重要で、「ゆとり世代」とか言われてますが、世代全体として、学問を収めて高い目標を持つということを軽視させられた上で、「趣味を追求すること」や「仲間への奉仕性」を強調されてきています。 上位層はそれほど変わらないとしても、割合として「ブラック企業と親和性の高い教育」を受けてる学生が多いと思っています。

その意味で、この記事は半分くらい真実に触れている気がします。「成功じゃねーよふざけんなハゲ!」とは思いますけど。
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar300510


で、教育から変えないといけない、「ゆとり教育」を脱しなければいけないと方針転換は図られたのですが、それを実施していく教師側の環境が全く変わっていません。むしろ年々劣悪になっていってます。

gurutakezawa 教師や雇用主はうまく洗脳して勝手に同調競争してくれる方が楽で、ノウハウと空気も確立してる、と思ってる。ただ教育現場は人手不足も含めそうでもしないと回らなさそうに見える。個々の教師よりも教育行政の問題

教師自体が、ブラック企業的な環境での奉仕を要求されている状態であり、子供に身を持って「働くってこういうことだ」と見せつけてしまっている。(一方で、非常に権威主義的なところも見せてしまっており、そのあたりが、ネット上での発言になってたりするところもあるのかなとか考えだすと切りがありません) ほんとに、教育現場は課題だらけです。

少なくとも、こうした構造とその危険を認識して、この構造に取り込まれないようにしていきたいです。 

そして、これは、教師でなくてもできることだと思います。むしろ親御さんの認識の転換が何より重要ではないかと。 目先の進学や就職にこだわらず、自分の子供の就職先がブラック企業ではないか気にして、ブラック企業を拒否する場合、支持してあげるといった形になればいいのですが。



自尊心の在処を他人の評価に委ねることから脱出するためには何が必要か

「やりがい搾取」の問題の根幹は、「自尊心の欠如」にあると思っています。
過去記事で、自分の承認を他者からの評価にゆだねていると、自分で自分をコントロールできなくなり、それこそが最も恐ろしいということを書きました。

http://possession.hatenablog.com/entry/2013/10/30/012046

彼女は自分で自分を承認することはできない。それでいて、彼女が「すごいと思っている人間の親友であること」「すごいと思っている人に羨ましいと言われたこと」という形で、自分をひとかどの人間であるとみなしている。自分を承認している。
(中略)
本当の解決は自分で自分を見つめ、最初からやり直すことだ。しかしそんなことができるなら最初からこんな状態に陥ったりはしていない。それは最初から不可能である

願わくば、やりがいをただ搾取されるだけではなく、どこか人の輪の中で自尊心を取り戻し、そこから自分で自分を見つめ、自分がこうありたいと思う方向へ進む決断をする勇気が必要になるのだと思いますが…私にはハードル高いなぁ。自分で自分の人生を生きるという事が、なんでこんなにハードル高く感じてしまうんでしょうか。そして、今後の若者にとっても、これからさき難しくなってくるんでしょうか。ぐぬぬ



「やりがい搾取」を回避することは生存の為の絶対条件

これ、ドラッカーが企業について指摘していた問題が、いま個人に降りかかってるのかもしれませんね。

企業にとって第一の責任は、存続することである。言い換えるならば、企業経済学の指導原理は利益の最大化ではなく、損失の回避である。企業は事業にともなうリスクに備えるために、余剰を生み出さなければならない。リスクに備えるべき余剰の源泉はひとつしか無い。利益である。

しかも、事業は自己のリスクだけに備えればよいわけではない。利益を挙げられない他の事業の損失の穴埋めにも貢献することが必要である。企業は、教育や防衛などの社会的費用に貢献する必要もある。税金を収められるだけの利益を上げる必要がある。事業の拡大のための資金を生み出す必要が有る。そして何にもまして、自らのリスクを賄うに足る利益を上げる必要がある。
要約するならば、利益の最大化が企業活動の動機であるるか否かは定かではない。コレに対し、未来のリスクを賄うための利益、事業の存続を可能とし、冨を生み出す資源の能力を維持するための最低限度の利益をあげることは、企業にとって絶対の条件である。

この必要最小限の利益が、事業の行動と意思決定を規定する。まさに、それは事業にとっての枠であり、妥当性の基準である。マネジメントたるものは、自らの事業のマネジメントにおいて、少なくともこの必要最小限の利益に関して目標を設定するとともに、その目標に照らして実際の利益を評価する必要がある。

若者たちは、10年くらいは持つかもしれませんが、それ以上はもたない、そうなった時に、どうやって生きるのか、を考えてほしい…っていっても、ここで「とある傾向を持つ女性陣」の話があってややこしいのですが、この話は荒れそうなので省略。

*1:正直、私はこの本読んでも「何を今更…」というか、一つ一つのトピックがやたら薄くて残念だと思ったんですが、クローズアップ現代を見てから、「みんなわかってるはずのことでも、とりあえず誰かがそれをきっぱりとまとめて言い切る」「声を上げにくい人の旗印になる」という意味で、こういう本は必要なのかもしれないな、と思いはじめています。そのうえで個人的には「プライベートプロジェクト」の部分について具体的に書かれた記事や本の方が読んでみたいですここが弱いと「言いたいことはわかるけどボクには支えとなるものがないから無理」ってなりそうな気がするんですよ少なくともこの本読んで「立ち上がろう」って思える人はそこそこ良い環境にいるけど会社論理に寄り添いすぎている側の人だけでブラック企業で働かざるをえない人とかはなかなか動けないんじゃないかなそこで「要は勇気が」とかきりかえされたら結局そこかこのやろうという気分になって僕はくぁwせdrftgyふじこlp