なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「おおかみこどもの雨と雪」についていろいろ

「気に入らん!どうしてそういつもヘラヘラ笑っている?」
「フフッ…フフフフフ……」
「笑うな!…何がそんなにおかしいことがある?」
「ハハハ!アハハハハ…!」

のシーンをどう解釈していいのかよくわからない。

他にも、物語全体が雪の思い出がたりという体裁をとっているためか、花さんについての話は、あくまで雪が強く印象づけられた断片的なエピソードの再構成にすぎない。

小説版を読んでみたらちょっとはわかるのだろうか。

個人的には、花さんがどういう育ちをしたのかとても気になった。


前半では偉大な「母」として自己実現を果たそうとした花さんが、後半でフルボッコにされてしまう話

前半の花さんの行動の理不尽さや、それでもなんとかしてしまう彼女の超人ぶりがよく指摘されるが、大事なのは、その花さんを持ってしても、10歳の子供すら制御できなかったということである。


前半あれだけ「母」として奮闘し、雪の思考形成にも絶大な影響力を及ぼした花さんは、後半では「母」として特別な役割を発揮することができない。

前半では一人でたくましく廃屋を住める環境にし、畑も切り開いた万能なはずの母は後半とても弱々しく描かれる。台風の対応でよろめく姿や、停電時のふらついた姿、極めつけは、大雨の中、森で崩れ落ちる描写である。


雨の問題にも、雪の問題にも力になってあげることができない。ただうろたえて、「母」であろうと願うあまり、子供が自分の常識の範囲内に収めようとする。自分の手元に止めようとする。まるで子の気持ちに無理解な母親のような描かれようだ。

お願い…もう、山へは行かないで…
母さんの、お願い…

しかし、雪にとって、自分を誰よりも理解してくれたのは、将来の自分にとって一番の支えになってくれるのは母ではなく学校の友人だったということをこれみよがしに見せつけてくる。


雨にとっても、一番大事なのはそれまで命をかけて自分を育ててくれた母ではなく、自分の役割を見出した場所である。母はむしろ自らが望む生き方の障害のようである。


そして、雨や雪が母の手を振りきってそれぞれ自らの道を選ぶ時、花はそれを見送ることしかできない。無力な傍観者的存在として切り捨てられるかのようである。

私、まだあなたに何もしてあげてない。まだ、何も。
…なのに…

母としての花には、もう何もできないのだろうか。
この先、どうやって生きればよいのだろうか。

次の年、中学校の寮に入るため、私は家に出ました。

私達を育てた12年の月日を振り返って、母は「まるでおとぎ話のように一瞬だった」と笑いました。とても満足げに、とても遠くの峰を見るように。その笑顔が、私はとても嬉しいのです。

母は今も、あの山の家で静かに暮らしています

満足げすぎて、このままどこかへ言ってしまわないか怖い。お伽話が終わった後、花はどう生きるのか…

立派に子供を育て上げた満足感だけで生きるには、これから先の人生は長すぎると思う。

別の目標を持たない限り、雪に対して依存するような生き方にならざるをえないのではないか。そうでもないのか。

母ってなんなんだろう。なんかちょっと母の感想を聞いてみたくなった。















以下蛇足。

社会どころか、登場人物の内面さえ描かない不思議なお話

花の行動や選択については細かい突っ込みどころは色いろあるだろうけれど、それに関してはもう語り尽くされていると思う。
とりあえず私が読んだ限りだと、この記事が一番わかりやすいと思う。
http://raikumakoto.com/archives/7383462.html


しかし、自分視点から花の行動を批判するのはとても簡単なのだけれど、その時々で花が何を考えて行動したのか、そもそも花という人間はどういう人間で、どういう行動原理を持って生きる人なのかが、良くわからない。

夫を、本人に非があるとはいえ問答無用で撃ち殺され、ゴミのように捨てられた時に何を思ったか、恐怖か、敵愾心か。それがその後の彼女の生き方にどう影響を与えたか。そういったことは具体的には何も語られない。

子供が二人学校にいくようになった時、一人きりになって何をしていたのか、何を考えていたのか。あまりに描写の空白が大きい。

雨や雪に関しても、子供時代どう考えていたかはあまり語られない。

そして、親と子の感情的なやりとりも、断片的に会話が描かれているだけで、内面まではよくわからない。事実だけを見ると、ずっと同じ空間にいるはずなのに、深刻なディスコミュニケーションがあったように感じる。親密な親子の会話があったように感じない。*1

そして、思い出を振り返る「雪」のカメラは、花さんも、雪も、自分自身についてさえも、ほとんど内面に踏み込まない。これもかなり怖い。


彼女の心理面は最後まで見てもほとんどわからない。想像で補うしかない部分が大きい。だから、人によって花さんのイメージは大きく変わるのではないか。

とにかく、徹底して内面の描写が避けられる。特殊な条件、特殊な環境で生きるものたちの物語だから、内面がとても大事なはずなのに、その受け止め方は、すべて観る側の想像力に任されている。

しかし、想像するためのピースは必ずしも十分あるわけではなく、花さんの異常さ、いびつさが際立つものが多い。そういったものが積み重なって、とてもモヤモヤさせられる。 「これホントにどこまで考えて作られているんだ?もしかして不完全なお話なだけじゃないか?」とさえ思ってしまう。


確かに「子の心を親が知らない」かもしれない。でも、それ以上に「親の心子知らず」な気がする

だが、自分が親を振り返って語る時、他人は自分の話を聞いてどう思うだろうか。あるいは他人が自分の親をエピソード混じりに語ったとして、はたして自分はその親を実物通りにイメージできるだろうか。

私は、いい年をして、未だに自分の親のことさえよくわからない。わかったつもりができないこともないが、関係がギクシャクしていてうまくやっていくことができない以上、本当は何もわかってないのと等しいだろう。

子から親を見た時、あるいは他人が語る家族の話を聞いた時、必ずしも理解できるわけではない、むしろ理解なんてできないってことなのかもしれない。

この作品、ストーリーでは「この心親知らず」の部分は強く強調されている。こちらは直接読み取ることができる。

でも、それと同じくらい、「親の心子知らず」「他人の親の気持ちなんて他人の私にゃわからん」ってことも感じた。


そもそも花さんはどういう人なのか

恵庭姉弟とか

状況が変えられないなら、自分が慣れるしかない
どうにもならないことなら もう楽しむしかないわ

壊れたものを元に戻すことはできないけれど
そこから何かが 芽生えることだってある
だからいつの日か その血から花が咲きますように

の不破謙司くんとか思い出す。

花さんのことが気になる。

花さんは「能力のあるほむらちゃん」だよね

これ語り始めると長いからサクッと。

花の生き様は、ものすごく暁美ほむらを思い出させられる。

「夫と幻想の野原で交わした約束だけが生きる糧」みたいな。夫との対幻想のためだけにいきているかのような危うさ。呪いといってもよいかもしれない。最後のシーンで、花はこの呪いから解放されたのだろうか。

中盤ちょっとの間だけ人との交流が描かれたけれど、後半ではその描写が全く見られなくなってて、彼女の日常がどのようにバランスしているのかさっぱりわからないのも気になる。

ほむらは、「救済まで約束を守り続ける」ことを支えにしなければ生きられなかった。あるいは「まどかを救う」ために戦い続けるというのも、やはりまどかのためだ。

花にとって夢で交わした夫との約束は終わる。新しい約束はかわされなかった。この先彼女は、どうやって生きて行くのだろう。



今日はDDR5回プレイしました。今日もblew my mind CDPがクリアできませんでした。しばらく無理をセず周りから固めていきたいと思いマス…

*1:例えば小学校入学時の雨のエピソードなど。他の子どもたちとうまくやっていく際に、アオダイショウを捕まえたり、動物の骨のコレクションを見せたらおかしい、などということを親が全く教えない。どうしたらこういう状況になるのか