歴史マンガはいい文明

「風雲児たち」から初めていろんな歴史マンガを読みます。オススメの歴史漫画あれば教えてください

「癒える」と「癒やし」

ジョルノ……俺は生き返ったんだ。故郷……ネアポリスでお前と出会った時……組織を裏切った時にな、……ゆっくりと死んでいくだけだった俺の心は生き返ったんだ……おまえのおかげでな……
幸福というのはこういうことだ…………これでいい
気にするな…………みんなによろしくと言っておいてくれ…

http://anond.hatelabo.jp/20131220210848

に関して、最近読んだ「癒える力」から引用。

http://possession.hatenablog.com/entry/2013/12/15/231148


癒しの語源はhealで、cureと対置されるべきもの

癒しということあは、現代の閉塞感を反映する流行語になっている。無自覚のうちに「癒やされたい」と感じている人々が巷にあふれている、ということだろうか。これはhealingの翻訳だが、healには癒やす、と癒えるの2つの語義があって、これを一方だけに限定して日本語化すると、大きな誤解を方向づけるのではないかという気がしていた。

もともとhealingの唱導は、近代の医術が近代技術の発展によって様々な疾患の資料には目覚ましい成果をあげたが、同時に医師がそこなわれた肉体の部分を対象とする技術者となってしまい、病む人の苦しみや願い、生きてゆく過程は見捨てられる結果になっている、という反省から発したことだ。

からだを蝕む「悪」を食いとどめるイメージ。

「医はcure(ナオス)ではなく、healだ」という理想は古代からのもので、トールキンの「指輪物語」の結末に近い1エピソードがそれを垣間見させてくれる。

悪の魔王の圧倒的な大軍の包囲の中で、魔軍の総司令の悪鬼を倒しながら自分も致命傷を受けた王女の前に、数百年の血筋を隠して野に潜んでいた真の王者たる人が姿をあらわし、キズに、下働きの老婆がわずかに記憶していた口伝の薬草を探し出してきて貼り、香り高い薬湯によって心気を落ち着かせ、人でないものがからだに突き入らせた悪を消していく。伝承は「王の手は癒しの手」と唱える。この癒やし人は、キズや病というよりは、人を滅ぼす根源的な悪そのものを押しとどめ、これを打ち破り無にしてしまう力を保つものとして現れるのだ

このような癒しの手のイメージの源にはイエスの姿があるのだろう。だが癒し人は、自分の力、自分の技術的な操作で「癒やす」のではない。神の子イエスでさえ、思い余って彼の衣の裾にさわった、長年の病に苦しむ女に向かって、「あなたの信仰があなたを救った」という(※)のだ。
http://hajimac.qee.jp/mark013.htm

悪に対抗するのは、正義かというと、それだけでは不足で、その後に癒やしが必要なのだ、というお話。



商業的行為としての「看護」「介護」「教育」とは別の、理念としての

「看護」「介護」「教育」について。

人はどうして「ナオシテ」もらいたがるのだろう。自分でからだをととのえ、自然の理法に従うようにすればこれはすぐナオルと言っても、ただクスリをくれの一点張りで、しまいにはほかの医者にいってしまう。なぜこれほど依存的なのか、と。「癒し」という言葉が流行するのはひょっとするとこの語に「ナオシてやる」「治療してやる」という権威的な語感をかぶせて、人々が安心するのかもしれない。

「癒し人」とは、「癒えてゆくこと」へと促し、支え、ともに歩きつつ先行きを見図らいあうもののことだ、とわたしは考えたい。「指輪物語」の重症を追った王女についても、真の「癒えてゆく」苦しい戦いは、傷口がふさがった後から始まるのだ。そしてやがて一つの出逢いが彼女に生きる力を目覚めさせる。そういう働きかけの最も純粋な形の一つが「看護」であり、「介護」であろう。教師が子供に対する行為も本質的に同様だと思う。

こう書いてるからといって、義務教育における教師や、一般商業施設の看護師に、客が、この水準を求めるべきではないとは思う。


「癒える」が意味すること

「僕は助けないよ。君が勝手に助かるだけさ」
「人は一人で勝手に助かるだけ」

「癒える」とは、実は今までヤミに閉ざされていた広大な世界が開け、それに向かい合う新しい自分の非力さに愕然とすることだと言っていい。出発点であって、到達点ではないのだ。

(中略)

15歳で視力を失い、22年後に手術によって視力を回復した男性は、日記に記す。「これはあまりに長い幸せでない道、見知らぬ世界に通じる道だ」「いまのぼくはとても弱くなってしまったようだ。しばしば恐ろしいほどの疲労感にとらえられる。」

最近「風立ちぬ」で有名な堀辰雄の「恢復期」なんかも参照。


「からだとことばのレッスン」

わたしが若い人々と、後に「からだとことばのレッスン」と呼ばれる作業を始めたのは、ただ自分自身がその新しい次元で一歩でも前に出るためだった。それは人間とはなにか、人間になるとはなにか、自分はこれでいいのか、とみずからに、そしてお互いに問いかけること、と言い換えてもいい。他者とのぶつかりによってのみ、愚かなわたしは、わずかに自分の歪みに、愚かさに、気づくことができた。他人に働きかけることはもちろんあったが、術を施すことではない。一緒に試み考えるための手立てに過ぎない。

このあたりの取り組みは、「ちはやふる」の原田先生などに通じるものがあると思う。自分勝手に見えるかもしれないけど、それでいいと思う。「ナオシテやる」とおもうよりは。
著者の竹内さんがご存命であれば是非一度参加してみたかった…。


癒やしようのないものの前に立つこと

本書では、「癒えること」を上記のようにとらえている。その上で、どのように人の「癒えること」と付き合うか、どう人に働きかけるか、自分はどう生きるか、といったことについては、思索をめぐらせている。そこは興味があれば是非実際に読んで考えてみて欲しいです。

最後の章で語られる「癒やしようのないものの前に立つこと」はグッとくるものがありました。