なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ゆーすとさんへの質問

因果を逆転させたらあかん。言葉遊びではなく本当に逆転させたいならQBと契約して魔法少女になってからにして欲しい。

ゆーすとさんへの質問

http://syuraw.hatenablog.com/entry/2013/12/05/183752

ゆーすとさんにとっての「当事者意識」とは何ですか?
議論自体は興味深いのですが、肝心の「当事者意識」が文章中でどういう意味として使われているのかがよくわかりませんでした。
id:syurawさんに於かれましてはもう一度「ゆーすとという人間にとって当事者意識とはなにか」その言葉を自分の言葉で具体的に定義して頂いた上で説明いただけると嬉しいです。

つまり

結局この手の言説って、指摘するには指摘するけど、じゃあどうすればいいのかって段階で途端に抽象的な精神論で簡単に終わらせてるよね。恐らく多くの人にとって、その部分が最も厄介で最も出来なくて最もどうすればいいのかもわからない部分なんじゃないだろうか。

という指摘がありますが、この部分について何かしら考えがあればお聞かせ願いたいということです。よろしくお願いいたします。

補足説明 「要は****が無いんでしょ?」系の議論の危うさについて

書き手の文章はいまのままでは極めて不誠実に見えます。これは技術の問題なのか本人の「やる気」や「当事者意識」のせいかは問いません。(私はゆーすとさんのことを不誠実な人だとは全く思っていません)ただ言えるのは、主張として成立していないように見えるということです。

自戒を込めて

今の状態だと、自戒以外の用途に使ってはいけないと思います。

この手の議論を展開する人たちをたくさん見てきましたが、自分たちの議論の柱となるキーワードであるはずの「勇気」や「当事者意識」について、自分の言葉で、自分の責任をもって定義しているのを見たことがありません。

議論の柱の部分であるいもかかわらずその部分を自分では定義せず、読み手にその解釈を委ねている。「都合よく読んでくれることを」勝手に期待し、押し付けている。そして、批判されたら必ず「読み手は僕の意図を曲解している」とか言い出します。書き手自身が最低限の説明責任を果たされていないことについて自覚があるのでしょうか。


その結果、穴だらけの議論を、そのオールマイティーな便利用語がすべて埋めることになります。形だけそれっぽいものに仕立て上がりますが、便利用語の定義を問いただし始めた瞬間、虫食いだらけになって崩壊するものが多いです。



当事者意識があって自分の問題として捉えていれば、今になって慌ててオタオタするはずがないんです。

この発言は、最終的にこの増田のような主張に行き着くのではないでしょうか。

△△しないつもりって△△できるって事じゃないですか?
こっちの本気がどれだけ伝わるか。
絶対△△して欲しい気持ちを伝えてください。
更に他に作戦はないか本気で考えよう。
家に電話してこちらの本気を説明するとか。
こちらがいかに本気になれるかです。

一つのメール内で本気本気いいすぎぃ!

http://anond.hatelabo.jp/20131103101953

書き手の意見は、結局こういうことにしか過ぎないのです。すべての問題を「本気」や「当事者意識」といった言葉に集約させる。それでいて、「当事者意識」については何も説明しない。なんだそれは。




当事者意識とは何だったのか。自分で説明スべきことすら説明しないで丸投げする当事者意識とは何なのか。
これなら別に「当事者意識」なんてソレッポイ言葉を使う必要はないですよね。「hogehoge」でも「ズンドコベロンチョ」でもいいじゃないですか。それっぽい言葉で、ごまかさない分そちらほうがまだ誠実だと感じます。



この手の議論でよく出てくる

「勇気」「本気」「やる気」「コミュニケーション能力」
「自分事感覚」「選手意識」「プレイヤー感覚」

書き手のいう「当事者意識」はこれらのどの言葉にでも置き換えても全く意味が変わりません。便利な言葉ならなんでもいいのです。その言葉自体には中身がありません。ただのワイルドカードです。つまり、何も言ってないに等しいわけです。今のままではせいぜいトートロジーとしてしか扱えません。「本気になれないから当事者意識がないのだ。当事者意識がないから本気になれないのだ。」という、でっち上げられた二つの言葉の間で無限の責任の押し付け合いの螺旋が完成するだけです。



「要は****が無いんでしょ?」という議論を展開する際、書き手が書くべきだったのは「*****を持つとはどういうことか」であって「なぜ*****があればうまくいくのか」についての書き手自身の考え方です。そこが、書き手自身の考えを述べるポイントです。

私はそう考えています。



余談

このあたりは独り言です。わからないところがあっても知らん。

当事者意識の欠如 ⇒ 本気になれない ⇒ 失敗 ⇒ 言い訳

おうブロント方式やめろや。

・豪華なHNMLS→装備が充実→心が豊かなので性格も良い→彼女ができる
・せこいLS→装備が雑魚→心が狭く顔にまででてくる→いくえ不明

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%88%E8%AA%9E


「要は勇気がないんでしょ?」系の議論は因果関係が逆に成ってるかトートロジーになっていることが多い気がします。「敗軍の将、兵を語る」と同じ理屈になっている印象ですね。
我々はゲイ・ボルグの使い手ではないわけで、結果に合わせて因果を捻じ曲げるような論法ではなく、地道に、前から順番にどうすれば成果をあげられるのかを議論するほうが生産的なのではないでしょうか。


「要は****が無いんでしょ?」という精神論を越えるためにどういう議論が必要なのか

日本の職場では、この「能力」と「やる気」がしばしば混同されて理解されています。なんでもかんでも「やる気」の問題に収斂させ、「やる気」さえあれば、ほとんどのことは解決してしまうかのように語られがちです。しかし、これはまったくの間違いです。

人材マネジメントにおいて、モチベーション(やる気)をコントロールすることはもちろん大事です。しかし、そもそもの能力が足りないのにモチベーションばかりを引き上げようとすると、かえって深刻な事態を招きます。

http://diamond.jp/articles/-/45467

ちなみにこの記事、前半の統計部分はあきらかにおかしいので紹介しにくい…。


はてなブログによる、はてなダイアリーの負の側面の再生産が怖い

ああ、それにしても昨日の今日で…私のトラウマを軽々しくいじる記事が立て続けに。「要は勇気がないんでしょ?」から数年後、歴史は繰り返す…。はてなブログはどうしてこういうのがよくホッテントリするのでしょう。どうして私はこういう記事を見ると虚しさと怒りを感じるのでしょう。こういう記事をなんとかして撲滅したい。