なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「少女」という生き方を貫くということ

今まで5回記事書きましたが、ひとまずこれで「叛逆の物語」の感想を終わります。細かい点についてはtwitter等でつぶやくことは在るかもしれませんが、大枠のストーリーについての感想としてはこれが最後になるはず。多分。

とにかく、私にとって叛逆の物語は「心中物」を指向する話であって、私はこれを成長ものとして賛美するつもりは全くないし、むしろ、成熟を求める物語へのアンチテーゼだろ、と受け取りました。

これについては、結局自力では感想をかけなかったので、長い長い引用を用います。後はBD出てから演出的なこととか見返してみたいな、と。

「少女」とはいかなる存在か

①少女たちがJUNEを必要としているということは、少女たちが理解されてないということだと思っています。

②世の中には、JUNE的なものをまったく必要としない少女たちと、ムード的に必要とする、いうならば心情的JUNEという少女たち(少年たちも最近含まれていたりする)、そしてJUNEなくては生きてゆけないという少女たちとがいます。

③ここでは少女、といいました。それがポイントかもしれません。JUNEを必要としないのは女性であり、必要とするのは少女、という分類もできるかもしれません。

④少女というのは「孤独と不安にふるえる魂」であると思うのです。この孤独というのは、本当の孤独とはちょっと違うという気がします。それは「友達がいない」とか「ひとりで淋しい」というのと違います。JUNEに投稿したりヤオイの同人誌を作ったりする少女たちは非常に仲間どうし身を寄せ合う習性があります。だから本当はそういう意味でだったら、一番淋しくない人たちではないかと思います。JUNEなどというもの、ヤオイなどというものは特殊な感性ですから、他の人達には理解できないだろう、わかってもらえないだろう、という気持ちで彼女たちはこりかたまっていますから、「同じ言葉を話す」「同じ感性を持つ」同士でぴったりと寄り添い合います。彼女たちがなかなか恋愛をしなかったり結婚しなかったりする時、それはあまりにも彼女たちが(逆説的なようですが)「孤独でないから」---大切な親友の仲間たちとあまりにここちよい密接な共同体を築いてしまったためにひとりの男性とひとりの女性というカップリングに赴く気がしない、ということも随分あるようです

⑤JUNEの「孤独」というのは物理的な、ごくふつうの意味での「孤独」とはちょっと違っているのです。それは「理解されないのではないか」という孤独、「私と似たものはいないのではないか」という孤独、そして「私は一人の人間であることのなかに閉じ込められていて、他の人間とひとつになることができない」という孤独であるような気がします。
理解に対する絶望と不信による孤独、存在の孤独、といえばよいでしょうか。あえて言うならJUNEを書く少女たちの多くというのは「普通よりたくさん求める人々」なのだと思います。

⑥少女というものはかよわく、繊細で、不安で、そしておののいているものなのです。愛が欲しい。理解して欲しい。だが現実の世界はあまりにも乱暴で臆面もなくてがさつである。ある少女たちはそういう現実の世界でだんだん自分がそれに染まって大人になることを拒否する。そして拒食症におちいってゆきます。そういう存在がどうやって生き延びるか。どうやって愛によって世界を変えられるか。そういう存在を愛する「大人」はいないだろうか。いたとしたらどうやってそういう「大人」は子供に「愛」というものを伝えられるだろうか。差別された存在である者はどうやって生きてゆけばよいのだろうか。どうすればこの干からびた美しい現実世界に愛が存在することができるか。

⑦JUNEとは「愛の小説」であり「孤独の小説」であり「存在と魂のふれあいを求める小説群」なのであって、べつだん本当は美少年同士の       の話に限るわけではありはしないと思っています。

⑧「真実の愛」などというものを追求し始めると日常生活は不可能になります。日常と「真実の愛」とは相容れないものなのです。だが少女たちというのは「日常生活と真実の愛とは相容れない」といって済ませることを拒否した人々のことなのです。彼女たちは「愛がなければ死んだほうがまし」「最後の最後までの理解と融合を求めるのが本当の愛」というように考えます。そして「真実の愛」めがけて突進します。女子供だから。

⑨だが「真実の愛」と「真実の理解」などというものは存在しません。どんなに愛しても決してその人になることはできません。その人をすべて理解することも、同じ愛の頂点の感情をそのまま維持することもできません。気持ちはうつろい、人は他の存在に過ぎず、私達はそれぞれの肉体という檻の中の虜囚です。どれほど理解しようとしても他の存在との間のこの「存在の壁」というへだてを越えることはできません。

⑩だが少女たちはその壁を何かによって越える幻想を持ち続けます。持たないわけにはゆかないのです。彼女たちは世界で一番孤独で不安なのですから。

ほむらだって、それがわかってないわけではない。でもリミッターがぶっ壊れてる。なぜなら「少女」だから。「少女」に世界を担う力とかもたせたらダメですよほんとに。

少女たちが愛を表現するために用いる「にも関わらず」の文法あるいは虚淵神がいかに鬼畜であるかという話

①「たまたま」的な愛では少女たちは嫌なのです。そういう愛では<生活>はできるが、<生きること>はできない。この世界のたくさんの人間のなかからたったひとり、この人だけを求める、という形で選び出して欲しい、それが「真実の愛」だと思っているわけですから。

②非常に明快なアンチテーゼの主張が見られまると思います。それらの話で彼女らは「自分を」見て、「自分」を愛して欲しいのであり、「女」だったり「家族」だったりするからという理由で愛されるのは、彼女らの考える「真実の愛」とは違う種類のものなのです。

③快楽を信じない彼女たちは快楽の反対、つまり「苦痛」のなかに真実の愛があるのではないかと探しているのだと思います。

④つまりは「真実の愛」というものは、天然自然の理に逆らってのみようやく純粋抽出されるものなのだということです。世にもありふれた「ある愛の物語」と最も正反対の極致をつくり上げるための愛の神話なのです。

⑤そして、それから――なのです。

そして、虚淵神ルドラサウムは、この「真実の愛」を劇的に演出するためだけに、ほむらを徹底的に満たしてきたわけです。

別にまどかを救うために神さまから人間に引き摺り落とす必要性はない

http://t.co/JYmonUXDzE

魔獣のいる世界でほむらは健全に魔法少女として生きていた

http://t.co/pfK1MfYfqy

その幸せを与え、実感させた上で、自らの手で全部叩き壊させる。なぜならそれが真実の愛だから。「月詠」とか「ベルセルク」を思い出しますね―。どれほどの生贄を捧げるかを試される、という。他にもそういう話たくさんあると思いますが思い出せないのでコメントで教えてください。

「少女」の愛は、最初から袋小路に向かって突き進んでいる。

①「真実の愛」には、「そして……」に続く言葉がありません。「そして二人はいつまでもしあわせに暮らしました」にはなりえないのです。

②「真実の愛」には目的がありません。「それ自体」です。まして受ける方には苦痛のほうが強く、快感というのはあまり生じない。生じたとするとそれは精神の幻想がもたらす「幻想の快楽」なわけですから、「快楽が目的である」ということにすることもできません。ここにおいてJUNEはとうとうその本当の姿をあらわします。それは「どうすれば一人でなくなれるの?何をどうすれば本当に他の存在と一つになれるの?存在の壁をどうやって破ればいいの?」ということなのです。

③もともと愛しあい、受け入れるためのものでない二人が愛しあうことができれば敗れるかもしれないとおもった存在の壁。それはやはり破ることは出来ない。どれほど強く「愛している」と叫んでもやはり他の存在の中に入ることが出来ない。

④だからJUNE少女たちの苦しみと不幸とは、「この道をゆけばとりあえず自然に融合でき、別の存在だけれども自分の中から出てきた存在であるところもものを作り出すこともできる」唯一の道を拒否してしまったところにある。なぜ拒否したか。それはそれが自然によって摂理として予め決められた「愛」だったからであり、それでは彼女たちには「自分を唯一選んでくれる真実の愛」としては感じられなかったからなのである。だからJUNE小説はどうしても「俺たちに明日はない」展開をもたなくてはなりません。

⑤JUNE小説とは、「融合したい。でもできない」「融合したら自分の存在は失われる。つまり死である。だが融合しなければ永遠に孤独のうちに存在しなくてはならない」という、この人間の究極的な「存在の葛藤」そのもののはざまに立ち尽くす物語なのです。

ほむらの愛についは、、叛逆の物語を最後まで見た人は、この先に描かれるであろう悲劇がありありと想像できるはず。 上でも書いたけれども、本人だって、それがわからなかったわけではない。それでも、ほむらは一度まどかを手放して後悔した。二度目のチャンスを手放しで見送ることは絶対に出来なかった。今度こそは何があっても踏みとどまると決めた。自分の生き方を貫くと決めた。 そういう物語なのですよね。

最終的に少女がたどり着く答えとは

①JUNE小説は「本当にちゃんと苦しむ」小説のことだと思います。愛を探し、存在の壁を存在の壁を越えようと悩み、結局できずに滅びるか、できたという錯覚に酔うか、いずれにせよ撤退すまいという意思、ここにとどまるという表明、それがJUNEです。それが何を生み出すかといえば、それは「真実の愛」をではなく、「自分はここにいる」ということを発見するのだと思います。

一度それを神まどかに承認されたにもかかわらず、それでも満たされなかったほむらという少女。 彼女に、これ以上何かを与えることができるのだろうか。



引用はこちらから。

ちなみにこの本、今読み返すと1982年の段階ですでに「草食系男子」の登場を指摘していて興味深いです。

そういうところにあるタイプの「男の子」も最近増えてきましたが、そういう「男の子」たちはたいてい優しくてセンシティブで少女たちのかたわrにあってひっそりしている「雄」を感じさせない男の子のようです。つまりは少女でもある少年とでもいうような

商売のターゲットとされるまで25年以上放置されたうえ、いざ注目を浴びたらむしろ否定的な意味で捉えようとする商業主義というのは恐ろしい。そもそも草食系男子って言葉が流行する前に「男の娘」というキャラまですでにでてきてる時点で、オッサンたちは本当にオタク的なるものについては感性がだいぶ遅れていると思ったりもします。
ただ、逆に言えば、商業的にメリットがあれば、「少女」的な感性も歓迎されるというわけで、なんだかどう捉えていいのか悩ましいところです。




「叛逆の物語」は「少女」性の(一時的)勝利

として受け取ることが可能なのではないかと思う。

他にも「八百屋お七」の話とか成長を強制する物語による支配へのアンチテーゼとか、ポニョがやらかしたような「羊水の世界」からの脱出とか、成熟への拒否としての負の自己実現とか切り口としてはいくらでも語りたいことはあるけど、結局のところ「少女」性と「母」性との相性は異常に悪いのだ、ということが一番大事だと思う。


これについて、上の言葉を引用するならば、かつて「少女」の物語はBLとして語られることが多かったし、そういったものを必要とするのは「少女」に限られていたはずなのに、今はそのまま「少女の物語として」描いて、にも関わらず大ヒットしてるというのが、なんだか凄いな、と思う。

これについて「少女の物語を少女を主人公として描けるようになった」のか「少年が少女化して少女の物語を求めるようになったのか」みたいな話で参考になる記事が読みたい。

多分まどマギに限った話じゃない。見てないのでわからないけれど、プリキュアとかプリティーリズムとかジュエルペットとかアイカツとかそういうのが子供だけでなく大人の、しかも男性の視聴者に人気ということはなにかあるのだろう。 男オタクが子供を持つように成って、子どもと一緒にそういうのに触れるようになったとか以外に、どういうものが描かれてるのとか興味はある。(さすがにDVD借りて見る勇気はないです…)

「叛逆の物語」から「TV版」を振り返ると…

今から考えるとTV版はどちらかというと「少女」的なものが「親?」「大人?」的なものに敗北する物語と見ることもできると思います。

大人の不在・非力(QBは大人からエネルギーを得ようとはしなかった)による悲劇を埋めるため「少女がであることを捨てて親(神)になることで他の少女を救う」か、「それとも少女のまま滅びることを選択するか」という無理ゲー二択を強いられる物語。そして、前者を選択せざるをえなかった物語。 一人の少女の犠牲を持ってしても、少女たちの名誉回復までしか成し得ない物語。 

主体的に選択したか受動的に受け入れたかの違いこそあれ、結局、いつまでも少女のままでいることはゆるされない、それどころか今すぐ大人にならなければいけない。おとなになって、現実の魔獣と戦っていくことが必要なんだ。という厳然な事実を突きつけられ、それをどのようにして受け入れるかどうかだけの問題だ、といわんばかり。

大人の不在や非力さを上手に隠蔽することさえできれば、少年少女を戦争に動員する戦時下の統制国家のプロパガンダのように受け取ることも可能です。実際ナチス統治下においては戦争プロパガンダ映画が活躍したようですが、どんな感じだったんでしょうね。興味があります。

そこには、もっと多くを救うことは出来なかったのか、誰か少女以外に、少女のために戦える存在はいないのか、そして「自分がまどかの代わりになることは出来ないのか」という問いかけが抑圧されていた。美しいけれどベストではない、というモヤモヤを抱える人がいてもおかしくはないと思う。

私はTV版好きですけどね。(TV版の感想はこちら)
http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20121010/1349834184

私はラノベだとみーまーとか、ブライトライツ・ホーリーランドが好きなのです。

叛逆の物語は「今の時点では」ファンティスクにすぎない

というわけで、「叛逆の物語」は、まさにみーまーやブライトライツ・ホーリーランドででした。一時の感情としてはTV版よりはるかに好きです。まさに見たいものが見れた、という感覚。

ただ、これはあくまで「ファンディスク」の特別シナリオとしての好き、ですね。こういうものがまさに見たかったわけだけれど、これを正史としたいわけではない。これをやるなら、続きがまだ必要だと思う。ここで終わって満足したというのは少し無責任に感じてしまう。

今のままでは、私は「叛逆の物語」をファンディスクとして楽しむにとどまる。今のままでは、正史の方向をねじ曲げた結果、美しいバッドエンドにたどり着きました、で終わる。一人のまどかマギカのファンとして、それは、なにか違うと思う。

この先に完結編が出た時に、初めて完結編への新展開として受け入れられると思う。

自己を犠牲にしてわれわれをどこかへ導いてくれる救世主は決してあらわれない。ただ、一人ひとりの不断の努力によってしか、われわれの陥った希望と絶望の袋小路から抜け出す方法は無い。その不断の努力こそが「因果律ならぬ世界秩序そのものへの反逆」である

http://kousyoublog.jp/?eid=2580

私はやはりこういう世界を望むから。そういう意味で、今の状態ではまだまだ物足りない。