ゴミはゴミ箱へ

ともあれ互助会やスパムは滅びるべきである

げんしけん読んだ

一つ前のエントリ、誰も「げんしけん」に反応してくれなかったので改めて「げんしけん」の話書く。はてなのルールは明文化されてなくても、「○回~会議」の扱いは原作でしっかり描写されてるのだし、一人くらいこっち方向の反応欲しかった…。

作品そのものの感想

この作品は、オタクの問題として描いている問題は割りと深刻なものが提示されるのに「ファンタジー補正」や「外部的な視点からの解決」が非常に強く、提示されると同時に次々と救済されていく。救済されない人や、安易に問題が解決されることに苛立つ人はすべてげんしけんの外側に配置される。特に初代はその傾向が強い。

作者が、げんしけんというサークルには深刻な問題を受け入れて、リアリティを持って解決するキャパシティがなく、そこでリアルに徹すると「ヨイコノミライ」や「五年生」化しちゃうってことを多分自覚して、オタクの救われなさを提示しつつも、エンタメ作品として話を作ってくれているのだなーと思った。

その過程で、そのリアリティに人気が出てしまったがゆえにファンタジーの適用できなかった斑目の扱いに作者が苦心しているのが伝わって面白い。 二代目になってからは、なんとかして斑目を「成長」「げんしけんから卒業」させようとしているのがよく分かる。

ちゃんと告白して振られる展開にまでもっていけたのはものすごく良かったと思う。

とはいえ、一度自分の物語を生きることから降りる選択をした人間を、別の物語でもいいから何か前向きに生きてみろって持っていくのはとてもむずかしいようだ。 なんとか斑目に新しい目的・動機を与えようとして、仕事を辞めさせて追い込んでみたり、erg的展開に持っていったりしてるけど、このあたりは正直既視感というかテンプレ的な感じがして、少しgdgdしている印象。

リアルタイムで追うのは正直しんどいので、何年かかるかわからないけれど、完結した時にまとめて単行本を揃えて読んでみたい作品だと思う。

で、ここからまたチラ裏。はてなー的なものが嫌いな人は回れ右。おk?











げんしけんは長い間スルーしてたのだけれど、とある記事を読んで読む気に成ったというのは前に書いた。
http://possession.hatenablog.com/entry/2013/09/16/134900

で、興味があったのは

・大前提として貴方は朽木君タイプです。(貴方が女性であったとしても・・・)
・笹原くんは物語に挿入されたファンタジー要素。
・大抵の消費系オタクが自分自身と折り合いを付けて不器用ながらも社会化していく過程を体現したのが斑目

という3点。で、特に斑目という人物に興味を持って読んでみた。

自分自身にはそうするつもりは全くないのだけど(「電車男」的な話を読んでも違和感しか感じない)、オタクの社会化とか成長とかいうのにちょっと興味がある。居心地の良いオタク空間にいた人間が、そこから部分的にでもどうやって自立しようとするのか、とか、その時にどんなきっかけがあって、どんなことを思うのかとか。

無理やりはてなにこじつけてるだけかもしれないけど…

で、実際に読んでみたら、げんしけんは、オタクサークルってよりはなんかはてなっぽいな、というイメージになった。特に、笹原のような「ファンタジー的異物」の影響や、春日部のような「外部の現実」との接点を取り除くと、実にはてなっぽい。

当然笹原や春日部がいない世界線では荻上は救済されずに魔女化するだろうなーと思うけどそれはまた別の話

そんな中で笹原や春日部による影響(救済)を受けない斑目は実にはてなっぽい。

斑目は生産性のない評論家気質。

田中は服飾製作能力がある。それも相当レベルが高いと思われる描写が各所にある。久我山は漫画が描ける。スキャナもフォトショップも持っている。最終的に同人誌を描き切る能力があった。(ニコニコ・PIXIV的)

斑目は何も出来ない。皆が楽しんで作っていたプラモ製作も作れないので参加していなかった。そして、女も出来ない。

斑目にとって残酷な事に、これは当時の斑目が嵌ってたエロゲのモブの役割である。

微妙に現実とファンタジーが入り混じった中で、終わらない日常を繰り返そう、時を止めようとしてる感じがある。成長とか進歩とかを止める感じ。成熟とか社会への適応の拒否。とても身近に感じる。

班目をどういう人物としてとらえるかはその人のコミュニケーション観を浮き彫りにする気がする

当然、会話も「第○回、~~~会議」のように、似たような話題を繰り返すことになる。
私はこういうの好きだから全然悪いと思わないけど、これだけだと物語にはならない。
その結果として、物語の主人公役(自己実現)は他の人物に持っていかれる。

モブキャラとして、他の人間が成長したり自己実現したりして自分の物語を生きて行くのを横目で眺めながら、自分だけは変わら同じ場所にとどまり、ず今日もきょうとてやることは「第○回、~~~会議」。それでいて理屈っぽいので、それなりに形だけは整った意見を述べてみるわけだが、そこに生産性などかけらもない。話は今までの焼き直し。みんな知ってることの再確認。楽しいし、安心感もあるけれど、どこかしら、人の流れに取り残されたような寂しさを感じる。

・・・というように斑目が見えるのは、「コミュニケーション」それ自体にはそれほど価値を置いてない古い人間の考え方であり、今のコミュニケーションさえあれば満たされる人の感覚とはちょっと違うのかもしれない。

サークル「げんしけん」を模したメタサークルとしての「はてな村

というわけで、妙にはてなっぽい雰囲気を感じさせるげんしけんだが、これをリアルでできるのは、やっぱり大学というモラトリアム期間だけなのだろう。 

スクールカーストやら受験やらで抑圧される高校でもなく、社会人になったり、その前段階としての就職をひかえて楽しむ余裕が無い時期でもない、抑圧から自分が開放されるつかの間の貴重な時間があるとすれば、たしかにそれはゴールデンタイムと読んでもいいと思う。

はてなは、そのゴールデンタイムを擬似的に再現したものって考えると面白いかなー。サークル活動というか、メタサークル活動。

実際のはてなは、実生活は実生活でちゃんとこなした上で、ネットは暇つぶしとして使っている人が多い。ネットが全体にしめる割合はそう多くないだろう。現実では別に友達や配偶者がいる人が多いと思う。*1 
ブログに実存を求め、獲得したPVやブックマーク数で人としての能力や存在価値を測り、まして他人とそれを比較しだしちゃう人がもし観測されたとしても、それはあくまでネット上でのキャラ付けであって、リアルでそんなことを考えている人がいるわけがない。

「サークルにおける人間関係がそのままリアルであって、そのリアルをひたすら非生産的な会話に費やし、それをめいいっぱい楽しむ」。私は大学時代にそういったものを体験するチャンスが有ったのに、フイにしてしまって今でも後悔してるのかもしれない。今頃に成って擬似的にでもいいから体験したいと思って、はてなにいるのかも。




と、そんなわけで、前回の記事は、そのあたりの「非生産的な会話」的な感覚で、げんしけんの班目くんをイメージしながら書いてみたので、「げんしけん」部分に反応してほしかった。ちょっとネタが古いのでタイトルだけじゃわかりにくいかと思ってあとで一行目付け足したけどやっぱり反応なかったので悲しい。

「何度目だよ」「その議論○年前から」というのはまさにそのとおり。書き手にも自覚はある。多分しばらくしたら別の人が同じようなことを書くだろう。それがメタ・サークルとしてのはてな村ってもんじゃないですか。

*1:そういう意味で、本当にはてな的なものは、多分「GJ部」のように、部の外部を一切描かず、部の内部だけを描いている作品なのだろう。この作品では、部のメンバーが、部の外側では全く違う生き方をしていることは明確に感じ取れるが、それを確かめることはできないため、いろいろ想像するしかないところが面白い。

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