なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ほむらの望んだ自己実現の形あるいはほむらがすべてを捨ててでもまどかに捧げたかったもの

真実なんて知りたくもないはずなのに
それでも追い求めずにはいられないなんて
つくづく人間の好奇心というものは理不尽だね

叛逆の物語の感想において、ほむらの成長を賛美する声が多く聞かれましたが
私はあまりその意見にうんと頷けない立場です。

私は、暁美ほむらにとって成長は手段ではあって目的ではなく
望んだものではなく必要だったからやむなくそうしたものであって、
故に、ほむらの成長は賛美すべきものではないのではないか、そう考えています。

「H×H」の「ゴンさん」が一番顕著な例ですが、今期アニメでの「凪のあすから」のあかりをめぐるエピソードなどを見ても、分不相応な成長をすることが、彼女にとって本当に良いことだったのかどうかとか、そのあたりに疑問が出てきました。

物語にとっては美しいのかもしれないけれど、「成長せざるをえなかった」ほむらの疲れきった目はなんとも悲しい。そんなことを思いながらちょっと叛逆の物語について思ったことを書いてみたり。

ほむらが本当に求めていたのは、まどかの「本当の答え」「本当の望み」を知ること

①ほむらがまどかに捧げたかったのは「強制されない状況で、自分とセカイのどちらを選択するか、自分の意思で選択し直すチャンス」であると考えてみる。

TV版の物語の構造において、まどかに選択の余地はなかった。

自分が、まどかを、普段だったら絶対に選択しないものを選択する立場に追い込んだ。

まどかは、それを逃げずに受け入れることができる少女だった。

そして、まどかの本当の願いのために尽くすことが、ほむらにとっての自己実現だった。

だから、ほむらは、まどかの本当の願いが知りたかった。

草原のあの声が本当なのか、それとも彼女が概念と化した時の想いが本当なのか。

それを、確かめなければならなかった。

本来だったら、すでにそれは失われた可能性だった。

だが、執念のなせるわざか、彼女はそれを知る可能性を見出してしまった。

その可能性を見出した瞬間に、自分がまどかに救われるといったことは、とっくに頭の中から消えていた。

そのために、自分が愛するまどかにとって悪となり、打ち倒されようと構わない。

その結果、再びまどかが神となる選択をする可能性はたかい。その時、はたから結果だけ見ればほむらのやったことは、何もしなければ自分がまどかに救済されていたのに、結果は何も変わらずただほむらが救われなくなるわけだから、とても愚かで無意味な行為に見えるかもしれない。

だが、ほむらにとってだけはそれでも大いに意味があるのだ。

ほむらの願いは、まどかが心から望んだあり方をすることだからだ。

それが、まどかの望む答えなのであれば、喜んで受け入れるだろう。

君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる

http://homepage2.nifty.com/apo-k/mu4.htm

飼い犬が,飼い主の女の子に向けた歌だそうです。なんでも,ドラマの内容と歌詞を合わせたようなことを言っていました。確かに,犬の立場で考えれば,人間と犬ではどんなにがんばっても越えられない壁はありますよね。
また,「悪になる」の「悪」は,悪いことや悪人という意味ではなく,「励まし」,「手助け」,「守る」など,「自分ができることすべて」の象徴として「悪」を使ったのだと考えられるのですが。

……おかしい。

私は、こういう類型の話、たくさん読んできたはずだ。

「実は、主人公にとって敵だと思っていた人間こそが、主人公のことを一番思っていた、主人公にすべてを捧げていた」そういう話。

なのに、今一つも頭のなかに浮かんでこない。

TV版は「手を汚し、血を流したにも関わらず自己実現を達成できなかった」ほむらの挫折の物語

②ここからは別の話

本来TV版の物語は、ほむらの自己実現の物語として在るはずだった。

ほむらが長い旅をし、その果てにひとりの女の子を救うという英雄譚になるはずだった。

しかし、ほむらの自己実現の物語は袋小路になる構造として定められていた。

映画「SAW Ⅲ」においてアマンダが仕組んだ、絶対にクリア不可能な儀式のように。

この脚本を仕組んだ人間は、相当根性がひねくれているに違いない。

しかし、この物語を、まどかが引き受けて、逆転させた。

ほむらは自己実現をたっせいすることなくその場にとどまり、かわりに

救われるべき少女だったはずのまどかが自己実現を成し遂げる。

そして、ほむらは、徹底的に自分を傷めつけて、必死の思い出で戦い続けてきたにもかかわらず、自己達成の機会を永遠に奪われ、放置されることになってしまう。

ただ、まどかが救いにきてくれるのを待ちながら、日常を過ごすことを求められる。

これは、少し村上春樹の小説に出てくる主人公を思い起こさせる。

村上の小説は、主人公が物語構造から降りてしまう一方、女性たちが自力で物語構造を生きるようになる。

「ぼく」はその旅の入り口までは、つまり「境界」までは行くが、そこから先へは行けない。すみれの冒険が行われている場所に同行はできないのである。

向こう側に同行できなかった「ぼく」は彼女の生きた物語を知りえない。こちら側にしかいない「ぼく」にはそれが全く見えない。

なにもしないでただ待っていた「ぼく」は、それではカオナシの座に甘んじて生きるのかといえばそうではなく、王子様のキスを待つ白雪姫のようにすみれが目覚めさせて「ぼく」をどこかに連れだしてくれる予兆に胸をときめかせている始末なのである。

「ぼく」はカオナシである以上に「眠り姫」と化すのである
(「物語論で読む村上春樹宮崎駿」 p148)

しかし、村上春樹の主人公「ぼく」とほむらとの間には決定的な違いがある。

「ぼく」と違って、ほむらは自ら手を汚し、血を流す。自己実現を求めていないわけではない。「向こう側」に行くことだって恐れていない。(村上春樹の作品構造を考えると、それがいいことなのかどうかは置いておくとして)

むしろそれを望んでやまなかったにも関わらずまどかにその機会を奪われたのである。

もちろん、まどかがほむらの物語を引き取らなければ、ほむらは袋小路の中で魔女化して滅びるしかなかった。まどかはそれを救ったのは間違いない。

だが、結果としてほむらの自己実現は保留された。しかも永遠にそれが達成できないという形で。それは実質的に、機会を奪われたのと同じである。

ほむらにとっての物語は挫折したまま宙ぶらりんのままであった。

ならば、ほむらがやるべきことは決まっている。

ほむらは自己実現のために、まどかからその可能性を取り戻さなければならなかった

それが具体的にどういう物語だったかというのが、①で書いたような内容。

ただ、なぜほむらはこれほどまでに自己実現を強いられるのか。それは物語の圧力だよーみたいなことを書こうと思ったけど自分の手にあまるのでギブアップ。




と、こんな感じに読んでみるのも面白いかな、と思いました。

自己実現」って言葉が曖昧でわかりにくいと思いますが、簡単にいえば成長して社会において意味を持つ何者か(英雄など)になる、くらいの話ですね。

ところで文中で紹介した「物語論で読む村上春樹宮崎駿」は、「宇宙創世の円環構造」や「成熟を拒否する主人公(再生した世界でのまどか)と負の自己実現(デビルほむら)を行う敵」など、まどマギを考える上で面白いネタがたくさんあるので、超おすすめです。是非是非読んでみてくださいませ。



この記事は
http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/10/26/205745
に刺激を受けて書きました。 面白いのでこちらも是非。