なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ガチVSエンジョイという二元論が、「にわか」という言葉を使う人を生み出す

自分以外の誰かに向かって「にわか」という言葉を使いたがる人がいる。この言葉をきくとなんだかとても悲しい気分になる。なんでだろうと思っていたが、この言葉の裏側には、おそらくこういう感情や状況があるからだ。

俺は○○○が好きだ。
だからバッサリ辞めるということはしないだろう。しかし……

・他人との比較をやめて上達を諦め、自分で好きなように楽しむ(エンジョイ勢に?)
・現在より格段に多くの時間を○○○につぎ込み、本格的に上達を目指す(ガチ勢に?)

現在のどっちつかずで中途半端な立場は、別に悶絶する程ではないが、なんだか居心地が悪い。スッキリしない

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※「ガチ勢」「エンジョイ勢」という言葉を始めて聞いたという人は、大体こんな感じの意味だと思って下さい。

簡単にいえば「本気で上達目指してやっている人がガチ勢」「上達を特に狙わず、楽しくやる人がエンジョイ勢」(コミュニケーション重視)と言ったところか。

コミュニティによっては、ガチ勢であるか、エンジョイ勢でないと「何者にもなれない自分」を感じさせる圧力がある

この記事を書いた人は、そのスッキリしない感情を直視し、言語化している。しかしここまで考えない人は、「ガチ勢にもエンジョイ勢にもなれない自分」で居ることの居心地の悪さに耐えられない。

殆どの人はガチ勢でもエンジョイ勢でもない。「なんとなく」で楽しんでいる。それが「普通」ではないかと思う。(普通って言葉は適切ではないかも…)

ところが、「○○○を楽しむ」ということに変にアイデンティティや意味付けを試みると、ガチ勢でもエンジョイ勢でもないことがなんだかよくないことのように感じられるようだ

しかも、アニメでもオタクでもゲームでもなんでもそうだけれど、ネットに行くと、そういったものをアイデンティティの拠り所にしている人たちが多く、ガチ勢とエンジョイ勢に別れてコミュニティを形成していたりする。そして、お互いがなにやら排斥しあうような空気になっており、それ以外の人にもどちらかの立場を選択することを要求する圧力になるようだ。

非常に面倒くさいし、無益なことだと思う。しかし、実際こういう空気の中で、「ガチ勢」と「エンジョイ勢」の間でアイデンティティを決定することを求められ、自然に○○○を楽しめないという人を結構見かける。


「ガチ勢」で在ることを望みながら「ガチ勢」として認められない鬱屈を抱えると何かをこじらせてしまう

特に苦しい思いをするのは、「○○○が好きならガチ勢でなければいけない」と思い込んでしまった人である。 「自分は○○○をとても好きだ。真剣だ。しかし、ガチ勢として認められないと、なんだかその気持に自信を持てない。胸を張って○○○が好きだと言えない。」こういうふうに考えるととたんにしんどくなってくる

ところで、この二元論の状況では、先行者あるいは体力・資金力・時間などの資源を持つ人間が圧倒的に有利である。それらの資源をもっていて、先行者に負けずに戦える人は、何も言わずにガチ勢の仲間入りをすればいい。だが、なんでもコミュニティが成熟すればするほど、時間が積み重なれば重なるほど、○○○でガチ勢の仲間入りをするコストは上昇する。ガチ勢の仲間入りほどの労力を費やしたくない、費やせないという人が増えてくる。

殆どの人は、そういう状況に陥ってるコミュニティを見ると「あ、私は別にガチでなくてもいいや」とか「ガチとかエンジョイという区分けがないコミュニテイで楽しもう」となってくる。当然だね。楽しむことが目的なのに、そこに余計な重しは要らない。


しかしどうしても○○○への執着が捨てられない人、○○○好きというキャラで売っていきたい人、○○○が好きであることが己のアイデンティティとして重要な位置をもっている人はこの馬鹿げた状況から逃げずに立ち向かってしまう。

こういう人たちは「自分がガチで在る」ことを望みながらそれを周囲に示すこと、認めてもらうことが出来ない。もともと、「やりこみ」は結果として可視化される。ガチ勢でないものがガチ勢を気取っても基本的には恥をかくだけである。

「自分がガチ勢であると主張するためだけの俺ルール」を唱えだしたらこじらせ完了

知識や経験などの積み重ねでは勝てない。どうなるか。「ガチ勢とエンジョイ勢」という、殆どの人にはどうでも良くなっているその二元論を後生大事に抱えながら、なんとか自分でも勝てるように「俺ルール」をこしらえだすのである。

この時「俺ルール」「俺ものさし」を作りたがる人間の思考は単純である。

・絶対に覆せない知識や経験によって序列が決まる状況を覆したい
・自分がガチ勢であると主張できる、他の人間に負けない何かを基準にしたい

だいたい、この結果として、「○○○に真剣である真剣でない(評価するのは俺)」という俺ルールが誕生する。ルールを作るのも俺、評価するのも俺。最終兵器全部俺。そして、その「俺ルール」にもとづいて他者を評価する。ここまでして、ようやく「○○○」における序列において、自分が立派なの人間であることを確認する。ここでようやく、本人は「○○○が好きだ」と胸を張って言えるのである

キルラキル」が好きって言うだけでそこまでやらないといけない人が実際に居るのである。

こじらせた人は、こじらせた自分を維持するために「にわか」という言葉を必要とするようになる

ただし、この時、ただ本人が満足するだけなら問題はないのだが、所詮「俺ルール」は本人のなかにしかない。それをなんとかして認めさせなければ、ただの「自称」「自己満足」である。(実際そのとおりなのだが)

世の中の「山岡=ガチ勢」が「ほんとうの○○○」を語れるのは「○○○」について確かな知識や技術を持つからである。ところが、「俺ルール」で自分を持ち上げているだけの人は所詮「山岡ごっこ」しかできない。これでは誰も認めてくれない。ほうっておくと「俺ルール」の魔法は解けてしまう。また本人は何桃にもなれない自分に戻ってしまう。(この考え自体が間違いなのだけれどね)


こういう「俺ルール」をこしらえてしまった人は、この魔法の効力を維持するため、定期的にその魔法をかけなおさなければいけない。 「俺ルール」にもとづいて、元来のガチ勢を「老害」呼ばわりしたり、自分の基準にそぐわない人を「にわか」「萌え豚」などの蔑称で呼ぶことで、常に己の位置を高め続けなくてはいけなくなる。常に見えない何かと戦い続ける無限地獄の始まりだ

場合によっては、「こじらせキャラ」を演じてわざと炎上を狙ってみたり、ガチ勢にケンカを売ってみたり(たいてい瞬殺される)する。そうしないと、自分のアイデンティティを保つことが出来ないのだ。



まちがった「魂の錬金術」状態から抜け出すことが必要

もちろん、本人だってわかっている。自分の○○○の楽しみ方が、一番貧しい。
どれだけ攻撃しても、心のそこでは自分が「ガチ勢」に及ばない。「にわか」と読んでる人たちが「エンジョイ勢」として自分と違うルールで楽しんでいることはわかっている。結局、自分が素直に○○○を楽しめない、ただ純粋に「○○○が好きだ」と言えない自分のひねくれた心が問題なのだ。


「俺ルール」だって、冷静な人には無意味さを見ぬかれる。己の主張が無意味であることをつきつけられるリスクを常に抱えることになる。俺ルールに基づいたアイデンティティは常に薄氷が割れて水没する恐怖との戦いだ。

競技派が真剣に勝ちを目指して努力しているのは間違いない事実である。それならば非競技派は真剣ではないのだろうか。不真面目なのだろうか。怠惰なのだろうか。……そんなことは無い。あまり大会や競技に出て来ない人でも、実際に出場する際はその人なりに精一杯頑張るはずだ。それを「真剣/真剣でない」の軸の上に乗せようとするとおかしなことになる。

無意味なルールの無意味さに目をつぶり、無意味さのなかに意味をむりやり捏造し、なんとかかんとか自我を保って生きて行く。そういう「魂の錬金術(のまがい物)」も生存のために必要なのであればむやみに否定するものではないのかもしれない。とはいえ、そのために他人を攻撃せずにはイられないというのは厄介なことである。なぜなら、人は攻撃されたら反撃するからだ。他人への攻撃なしに自我を保てないなら、そこに安らぎは訪れないだろう。


情熱的な精神状態は、多くの場合、技術、才能、力量の欠如の証拠である。さらにいえば、情熱的な激烈さは、熟練や力量から生まれる自信の代用品になりうる。自分の技能に自信のある職人は、ゆったりと仕事にとりかかり、まるで遊んでいるかのように働きながらも、確実に仕事をやり遂げる。一方、自信のない職人は、まるで全世界を救っているかのような勢いで仕事に打ち込み、そうすることによってのみ、はじめて何かを成し遂げられる

ものごとを考え抜くには暇がいる。成熟するには暇が必要だ。急いでいる者は考えることも、成長することも、堕落することもできない。彼らは永久に幼稚な状態にとどまる

こっからは「お前が言うな」なんですが、やっぱり「にわか」みたいな言葉を使って人を攻撃せず、何も考えずに自分が好きなモノを好きと言って日々を楽しみながら過ごせる自分になるのが理想ですね。 ということを考えながら「敷居の住人」を読んでみようと思います。