なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

ネットのコミュニティのトレンドの変化とmixi

「昔のmixiのコミュニティ機能は魅力的だった。今のmixiはダメ」的な話が話題になっていた。

これについて、個人的には違和感がある。なぜなら、mixiの衰退はそのコミュニティのあり方、コミュニティに求められるもの自体が変化していったのだと理解していて、mixiそのものの失策以上に、トレンドの圧倒的な変化が問題であったと思っているからだ。

私がゲーセンの話をすると、「私の全盛期時代のゲーセンは、格闘ゲーム経由で友達ができた。今はメダルゲーや音ゲーばっかりで俺がついていけないから悔しいムキー!」みたいな話になるのだが、それと同じような感じなのではないだろうか。mixiはすでに「ハイスコアガール」で語られる三丁目の夕日的存在になっているのかもしれない。

ちなみに最近後輩に誘われてゲーセンでメダルゲーやってみたら、結構面白かった。複数人で行くならありです。1000円で3時間くらい時間つぶせる。マリオのやつでジャックポット出たよ!


一応以下にmixiについての個人的な理解を書いておく。

1  形のあるコミュニティ(PC、クローズド、一定以上のレベル必要)の時代

2ちゃんねるmixiのコミュニティ、あるいははてなスペースなどのコミュニティの特徴は明確に「管理者」が存在することだ。メンバーであるかどうかも明確である。そういう「場」というか「器」が明確であり、そこから、閲覧や書き込みなどがオープンで有るかどうかに差異はあったが、根幹として、コントロールが及ぶ仕組みになっていた。
特にmixiは、趣味や目的で繋がるコミュニティを作りやすい仕組みになっていて、そういった場所では、きちんとしたルールや常識が共有されて、メンバーには居心地のよい空間が形成されていった。


はてなダイアリーあるいははてなブログは、そういうものがあまりなかったが、それぞれがIDを持ち、「村長」「はてな村」などの名称を用意してみたり、コミュニティの存在を明確に意識していた。こちらも、擬似的ではありながら比較的安定したコミュニティを形成していたと言える。


実際、初期SNSにおいては、ネットで人と知り合うためには、ブログ(テキストサイトとかそれ以前の蓄積全て含む)である程度自己開示をするとか、mixiニコニコ動画のコミュニティのように、きちっとした仕組みや、目的の共有といった口実が必要だった。 人と繋がりたいという欲求に答えるのに、当時はmixiが最適であった。


ニコニコやpixivも、mixiやブログのコミュニティ機能を動画・絵など専門に特化させる形で一気に成長したと言える。この時期は、それなりにきちっとしたコミュニティがあったと記憶している。
(そういえば2008年頃にサバイブSNSとかフリーダムSNSとかあったけど、あれは今どうしてるんだろう。)

1のまとめ。SNS黎明期あるいは、SNS使い始めの人間にはmixiというのは非常に優れたシステムであったし、今でもその要素は充分生きている


2  流動的なコミュニティ(モバイル、オープン、誰でも参加可能)の時代

しかし、ある程度ブログやmixiによって、人とのつながりが一通りできあがり、安定してくると、関係構築コスト、維持コストも下がってくる。そもそも、ネットで人と繋がるという感覚が、それほどかしこまったものでなくなってくる。 「もっとゆるいつながりでいいんじゃね?」という感覚になってくる。


ここにきて、twitterが盛んになる。「もっとゆるいつながりでいい」「特別なルールとかは要らない」「自由にやればいいじゃない」「嫌なら見るな」「我慢できないなら電源を切ればいいんスよ。ブロックすればいいんスよ」という感覚が強くなってきた。


「きちっとしたメンバーシップ」「ルールにのっとって運営される、管理者が存在するコミュニティ」「相互承認を前提とするコミュニケーション」がめんどくさいという人が多くなったわけだ。 こうして他人に気を遣わない、とても気楽なコミュニケーションが可能になった。時、今まで当然だと思っていたmixiやブログでのコミュニケーションをおっくうに感じる人が増えてきた。日本人が、欧米との接触で「肩こり」という感覚をしってしまったように、「mixi疲れ」「ブログめんどくさい」を感じる人が多くなったというわけだ。


コミュニケーションに求めるものが変化するのだから、当然コミュニティに求めるもの、コミュニティの在り方も変わってくる。コミュニティは、組織のように固定化されたものではなく、必要に応じて泡沫のように浮かび上がり、そしてまた消えるような、流動的なものになっていった。

もちろん、急激なオープン化、急激な意識の「ゆる化」によって、「にわか」問題、「パクり」問題、バカッター問題などの問題は起きているが、おおよそ、コミュニケーションの在り方の変化はいい方向に流れている…と思いたい。



2のまとめ。求められるコミュニケーションのトレンドが変化してmixiはもっともクールなSNSサービスではなくなった



2.5 mixiの衰退について

mixiがこのコミュニティの在り方の変化に対応するにはいろんな重荷があった。招待制のSNSからスタートしていたmixiはリアルでの付き合いを念頭においている。当然ユーザーのページにはプライベート情報が沢山蓄積されている。オープンなネットに特化したゆるいコミュニケーションにはそもそも向いていなかった。(むしろ無理矢理対応しようとして、さまざまな問題が起きた)


ゆるいコミュニケーション、ゆるいコミュニティ目的での使い方では「承認」という壁のないtwitterの方が圧倒的に拡大のスピードが速かった。それで、mixiだけでなく、ブログも人と繋がる手段として、第一の手段ではなくなった。ベースとしてはあるものの、最前線ではなくなってしまった。日常的にもっとも使うのはtwitterだと言う人が多くなった。


これはmixiの戦略ミスだとか、まして足跡機能がどうとかいうしょぼい問題指摘でなんとかなる話ではない。ネットの大きなトレンドがそもそもmixiの主戦場とズレてしまったのだ。ネットコミュニケーションの需要そのものが大きく変わったのであるmixiは、規模を縮小してでもそのまま古き良きコミュニティを維持するSNSとして中堅的存在として生き残るか、greeのように全く別の会社に生まれ変わるかの選択をす状況にあった。 そこで、中途半端に今までの資産を維持したまま、他社の良い所をまねようとしたのが失敗だった。もはやトレンドから外れた時点でリーダー的ポジションでもなんでもなかったのに、「地位別戦略」においてリーダー戦略を忠実に実行した結果、「勘違い野郎」のレッテルを張られて沈んだわけだ。



2.5のまとめ。mixiの地位転落はイノベーションのジレンマ。あるいはトレンド変化の必然の結果



3 SNSの分岐、多様化・専門化の時代

もちろん、トレンドとしてゆるいコミュニケーション、多くの人に開かれたコミュニケーションの方が数に於いて優位なのは確かだ。だがコミュニケーションの需要は多種多様であり、用途に応じて、それぞれ機能的に特化したSNSが使い分けられるようになっている。

リアルの関係を前提としたコミュニケーションならFacebookだろうし、
特に親しい友人との関係で非公開のコミュニケーションをやるならLINEやSkype・・・
みたいなことは別にいう必要もないだろう。
ユーザーとしては、それぞれの必要に応じて、便利なサービスを使いこなせばよい。


3のまとめ。SNSはコミュニケーションを扱うものである以上、もともとmixiが一強という時代の方が不自然で長続きするものであなかった。多様なSNSがある今の方が素晴らしい



mixiに関するまとめ

mixi衰退に関してはイノベーションのジレンマとか、「地位別競争戦略(リーダー、チャレンジャー、ニッチャー、フォロワー」の話をした方がよいと思う。「俺の愛した○○じゃなくなった」と衰退したをごっちゃにしてもしょうがない。「俺の愛したgreeは以下略」「俺の愛したニコニコは以下略」という声も当然あるが、それと企業やサービスの盛衰は別の問題である。

赤字に関しては「金を払うユーザー、金を払いたくなるコンテンツを生み出せなかった」であり(この点はニコニコは本当にすごい)、ユーザー減少に関しては「トレンドの変化に対応できなかった」くらいに理解しておいたほうが良いと思う。「足あと機能」などの象徴的問題と、本質的な話は区別したい。

mixiの敗因は極論すれば、広告がメイン収益源であるがゆえに「金を払わないくせに我こそがmixiを支えていると勘違いしてるバカ」を気にし過ぎたことといっても良いかもしれない。greeやニコニコみたいな形を作れない限り、それはアニメ業界における違法DLユーザーと対して変わらん…はいいすぎかなぁ。






実は、ここまでが前置き。

本当はネットの自浄化の話をしたかったのだけれど、なぜかmixiの話になってしまった。

ネット全体が「ゆる化」「先鋭化」するなか、自浄化作用に期待できるのか?というかするべき?

間違いを広められたときに、それを払しょくするためのコストって、考えたらすごいんだよ。でも別に、間違いを広めた○○○はコスト払ってくれないでしょ。

http://togetter.com/li/572122

読んだ。


前に「ネット全体で自浄化作用期待するのはもう無理じゃね?」って書いてみた。
http://possession.hatenablog.com/entry/2013/08/30/221302

だいたいこんな感じ。

①そもそもそういうのが作用するのは、確固としたコミュニティあってこそじゃね?今そんな確固としたコミュニティなんてないじゃん。ふわっとした人の集まりをそれぞれがコミュニティって自称してるだけじゃん。古くさいはてな村とか数年前のmixiが好きな人たちならともかく、現在のコミュニティ感覚では、自浄化作用が機能するとは思えない」


②「今まではgoogleやyahooさんたち検索エンジンや、wikipediaが頑張って権威として機能してきたから、「わからないことがあったら、とりあえず検索する」「とりあえずwikipediaくらいはチェックする」って感じのプロセスは残ってたからデマが急激に拡散するってことは無かったかもしれないけど、東日本大震災の頃かその前あたりから、もう自分で調べたり自分で考えるプロセスなんてすっ飛んでる人が沢山いるよね。脊髄反射でRTだよね。正しさよりもむしろ面白さとかキテレツさが受けてるよね。私だってそうしてるしね」


つまり、「間違いを払しょくするためのコスト」はどんどん大きくなっているわけだ。
大手メディアが、公害のように間違った情報を流し続けるのは変わらないにせよ、その間違った情報を拡散する力はどんどん強くなっており、逆にそれを払拭する力は弱くなっている。これはヤバイなーと思うわけです。

今の状態だと、ガッチャマンクラウズのようにカッツェをやりこめることは難しいんじゃないか。



ネットの自浄化能力を育てなおすには

同じ記事で、こういうことも書かれていました。
私はまずこういう所から考えを改めないとだめかな、と。

自分の得意じゃない分野のことで、ふわっとしたこと言われて信じる人を、あんまり悪し様に言っちゃダメ。一般の人が、はじめて○○のことをまじめに考えたときに、失敗が多いことも絶対あるよ。一般の人が、そりゃそうだと思うよ。そういうときに、わかってる人から、『あれは考えたのか、これはどうなのか、だめじゃないか』みたいに言われたら、やっぱやだろ。それはすごくわかるよ。あんまり、『ばかじゃないか』みたいなこと言うのも、そもそも衛生の勉強がきらいになっちゃうから、いかんよ。テニス始めたばっかりなのに、かなりプロに近いような人がきて、『へたくそー』って言われたら、テニスきらいになっちゃうよ。

私は、すごくアホな事を言ってる人を見ると、その人を叩きに行ってしまうという所がありました。

間違いを広められたときに、それを払しょくするためのコストって、考えたらすごいんだよ。でも別に、間違いを広めた○○○はコスト払ってくれないでしょ。

こちら側の意識が強すぎたんですね。「ろくに調べずに適当な事をいってドヤ顔するような奴は、その口ごと塞いでやる」みたいな乱暴な考え。
でも、そうじゃなくて、間違っていても、それについてちゃんと考えたこと自体は認めてあげて、その上で間違いを正すべきなのおかな、こんな風に。間違ってもいいから自分で考えるのを応援するというか。
http://togetter.com/li/369446

・・・って難しいな、くそう。私としてはやっぱり「基礎大事」の方が好きだなぁ。

早いうちから個性を出したがる人ほど、成長が遅くなってしまう傾向があるように思う
もちろんいちいち基礎の基礎たることを疑うことが大切なのだが、それと自分の個性を出すことは大きく違う

http://smoothfoxxx.livedoor.biz/archives/52097686.html

http://togetter.com/li/404351




「何年前だよ」って話ではあるけれども一応考えてみたらこんな感じになった。




追記

どうしてこんなことになってしまったのか、といえば、巡回ポリスが異常過ぎるGreeのように、援助交際などの不正使用に過度に反応し、足跡機能を一時的に止めたり、コミュでの会話を監視したり、といったことがユーザーから嫌われた、ということがあります。LINEも同じ状況なんだが、こっちのほうはまだ野放し状態。いずれ規約が強化されるでしょう。SNSやネットサービスは、悪意を持って利用しようとする連中との戦いです。話題になりユーザーが増えれば、その場を悪用しようとする人間が必ず現れる。社会問題化すれば、行政からの指導も強化され、マスメディアからの攻撃も激化するでしょう。

http://agora-web.jp/archives/1561749.html

mixiは窮屈でダサイ場所になってしまった、と。