「げんしけん」における、リアリティとファンタジーの配置
P.A.WORKS評論アンソロジー「アニバタVol5」の
TARITARI解釈で面白い記述があった。
TARITARIは、人物、舞台設定どちらにもリアリティを求めている。
ただ、リアリティ一辺倒というわけではない。
物語を盛り上げるためにファンタジー要素が取り入れられている。
「ウィーン」と「理事長」という二人の人物がファンタジー部分を担っている。
という感じの話だった。
私はこのリアリティとファンタジーの配置や配分という観点は面白いなと感じた。
ネットでアニメ感想とかを見てるとリアリティがーファンタジーがーということで、それぞれの「自分の中にあるリアリティーやファンタジーのお約束」をもとに作品評価してる記事がよくある。「この作品のこういうところがリアリティ感じないからだめ」みたいなことを言ってる人いて、その批判自体は妥当なのものもあるのだろうけれど、それだけを基準に作品の評価出しちゃっていいの?って思うことが多々あった。 *1
もちろん、定石はあるだろうし、それを崩した結果作品がダメになったケースも多いだろう。ただ、TARITARIの話などを見ていると、リアリティーとファンタジーの配置や配分に決まったルールなどないのではないか。面白い作品を作れるならばそれでいいような気がするのだけれど。
どうせリアリティーやファンタジー設定を論じるなら、それぞれが作品においてどういう効果を持っているか、みたいなところが読めると面白そうだ。そのうえで、うまく機能しなかったという評価なら、素直に受け取れる気がする。
ここまでが前置き(長い)、ここからがタイトルの話です。
「げんしけん」におけるリアリティとファンタジーの配置についての話があって興味深かった。
げんしけんに憧れる、という話についてお決まりのツッコミは「でもお前のげんしけんに大野さんはいないよw」なのだが、それよりも僕は「お前じゃ斑目にすらなれないよ」という事の方がよっぽど重要だと思っている。
◆「げんしけん」はギーグ内カーストを描いた残酷な物語である
http://p.tl/5jeu
という記事を読んだ。
主要な個所を引用すると
・リアルな描写で定評のある本作において、ファンタジー部分を担うのが笹原
・寧ろ高坂は弱者に突きつけられる現実そのもの
・大抵の消費系オタクが自分自身と折り合いを付けて不器用ながらも社会化していく過程を体現したのが斑目(リアリティ)
などなど、「オタク部活もの」の作品が、
リアリティに定評を得つつもエンタメであることを追及した結果、
リアリティとファンタジーがどのように配置されてバランスを取っているのかについて
語られていて、面白い。
実は、いままで「げんしけん」読んだことなかったし
他のレビュー読んでて自分に合わなさそうだなーと意図的に避けてきた。
けど、この感想読んで初めて読んでみようと思った。
ということで、今から読みます(オイ