なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「はだしのゲン」読んだ

生まれて初めて「はだしのゲン」を読んだ。
1巻のあとがきを読んで、初めて作者の人が実際に広島で原爆の被害にあった方であるということを知った。


とりあえず最低限知っておくべき知識は以下の3つかな。

①「はだしのゲン」は中沢啓治さん自身の体験にもとづいて描かれた作品である

②作者が描きたかったこと、伝えたかったことは
  ・「平和」の尊さと強く生き抜く勇気である。

③連載期間と連載誌

1973年第25号 - 1974年第39号 - 『週刊少年ジャンプ
1975年9月号 - 1976年8月号 - 『市民』(左派系オピニオン雑誌)
1977年7月 - 1980年 - 『文化評論』(日本共産党機関誌)
1982年4月 - 1985年 - 『教育評論』(日教組機関紙)

1966年、原爆病院に入院し、7年の闘病生活をつづけた母が死んだ。
母の火葬に立ち会い私は驚いた。母の骨がなかったのだ。小さな骨の破片が点々としているだけだった。
原爆の放射能セシウムは、母の骨髄に入り込み、スカスカにして、奪っていったのだ。私はものすごい怒りがこみ上げてきた。無謀な戦争を遂行させ原爆投下を招き寄せた日本の戦争指導者共と、平然と原爆を投下したアメリカは許せんと思った。

母の弔い合戦のつもりで「黒い雨にうたれて」から黒のシリーズ六編を青年誌で発表し、私の怒りを発散させた。つづいて少年誌「週刊少年ジャンプ」に場所を移し、戦争、原爆をテーマにして「ある日突然に」「何かが起きる」「平和の鐘」シリーズを発表して戦争と原爆の愚かさを告発してきた。

月刊少年ジャンプ」で漫画家の自叙伝を描く企画が出され、私が一番バッターで選ばれた。中沢啓治自叙伝「おれは見た」を45ページで発表した。

初代ジャンプ編集長の長野規氏は、45ページの短編では言いたいことも言えないだろうと、中沢啓治自叙伝を元に長期の連載をやらないかと勧められた。私の作品にいつも理解を示してくれる編集長に私は、心から感謝して連載に取り組んだ。

 タイトルは「はだしのゲン」とした。主人公ゲンは元と書く。元素の元、元気の元、人間の元になれと願って「元」と名づけた。「はだし」は素足で原子野の大地をしっかり踏みしめ、もう二度と戦争と核兵器は許さないぞという意味を込めて「はだしのゲン」と決定された。

主人公ゲンは、中沢啓示の分身であり、家族構成も事実である。本書で展開されるエピソード等は、私が広島で体験し、見聞きして記憶していたことを元にしている。

 人間とはおろかで、人種偏見、宗教、兵器を量産して儲ける死の商人共の策謀で、この地球上では絶えず紛争が続き、戦争と核兵器仕様の危機は果てしない。

 本書を読むことで「平和」の尊さ、強く生き抜く勇気---「ゲン」のテーマである麦は、寒い冬に芽を出し、何回も、何回も踏まれる。踏まれた麦は、大地にがっしりと根を張り、まっすぐに伸び、たくましく豊かな穂を実らせる---が伝わってくれれば作者冥利に尽きます。

個人的な感想

かなりカオスというか奔放なマンガである。

1:「過酷な境遇で、強くまっすぐ生きる少年を描く物語」という意味では素晴らしい
2:平和を訴える物語としては、いろいろ欺瞞を感じて受け付けないところが多い



1:
テーマは明確だし、感動的なエピソードも多い。「はぐれものたちが力を合わせることで、自分たちだけで自分たちが住む家を作る」シーンや「人生を諦めていた女の子たちが元のちからで生きる希望を取り戻し、最終的には洋裁店を開こうとする」展開は素晴らしい。


2:

だが、時代のせいだろうか、ストーリーに無理があるというか、欺瞞を感じるところが多い。元がこの作品の正義の基準になっているのは仕方ないとしても、ゲンをどんなときでも太陽のように扱い、かつストーリーも劇的に描こうとするあまりいろいろ極端というか不自然になっているような気がする。


たとえば、敵とされる人間が露骨な悪者として描かれ、一方的に断罪される。
また、敵が強すぎて追い詰められてしまうと
元ではなく友人の「隆太」が敵を銃殺することで排除する。

あんちゃんは来たらいけん・・・
あんちゃんは汚れたらいけん・・・
汚れるのはわしだけで十分じゃ
わしゃ二人もヤクザを殺しとるけえのぅ・・・

生き延びるために悪とされる行為も必要だということで
自覚や責任を感じつつそういう行為を行うならわかる。
*1

しかし、元は子供であることを武器にして、
弱者で在ること、純粋な被害者であることを主張し続ける。
ゲン自身は決定的に手を汚さない代わりに他の人間が手を汚しつづける。
これは個人的にあまり好きではない。

例えば、上の洋裁店を作る話だが、ゲンは最初その原資を作るために窃盗に入る。この盗みは失敗して、結局別のところで人助け?をした金で目的を達成するのだが、少なくとも、盗みを悪いことだとは思っていない。

繰り返すが、この時代、そういうことが生きるために必要だったというのはわかる。だが「正当化」しすぎのような気がするのだ。

大同造船と言えば、戦争を利用して大儲けした会社じゃ
わしらを戦争と原爆で苦しめたかりを返してもらうぞ

くそったれ 骨折り損のくたびれもうけじゃ
これでミシンを買う夢もパーじゃ。
ちくしょう ちくしょう
わしたら 大きな望みを叶えてくれと言うとるんじゃないわい
せめて古いミシンを買うて 生きる望みを叶えてくれと思っているだけじゃ
まったく神も仏もないわい

その後も、ヤクザを襲って金を奪ったり(この時実行するのは「隆太」だが)
朝鮮戦争で儲けた人間であれば、いきなり食事中に殴りかかったり
車を壊しても良いといった感じで傍若無人に攻撃をしかける。
「悪者」相手であれば何をしてもゲン側が正義であるかのように描かれる。


「自分のやってる悪はちっぽけだ。
 もっと悪いことをしてるやつはいる。
 そいつらをこらしめたり、そいつらから奪うのは悪ではない」
そういう思想や行動が随所に見られる。


本当に平和の実現を考えるのであれば、こういう考え方はまずい気がする。「絶対悪」を倒せば良いし、その「絶対悪を倒すためなら何をやってもよい」という話ではないと思う。その考えこそが、戦争につながりかねないとさえ思う。

「平和を訴えるストーリー」としてみると、いろいろと欺瞞に満ちており、倫理的にどうなのか、と思う作品だった。

とはいえ、作者自身の境遇を見るとなんとも言えない。
「原爆」や「アメリカ」「戦争で儲ける商人」への怒りをぶつけることが
非常に強く出るのは仕方ないのかな、とも思う。



戦争や原爆の悲惨さはこの本で学び、倫理や平和・正義については別の本で学ぶべき

私は図書館の閉架問題にはよくわかってないので触れるつもりはないです。
あえていえば、手続きの問題なので、内容を論じることはあまり意味がないでしょう。

というわけで、図書館問題をはなれてこのマンガどう考えるかというと、
正直いって、今からあえて子供がこのマンガを読む必要はないと思う。
もし子供が読むなら、親がちゃんと横でついて話をしながら読んだほうがいいだろう。

カウンター的なものが多数存在した時代ならともかく、
今この作品を単体で読むことを推奨するには抵抗を感じる。
そのくらいいろいろ偏りを感じる作品である。



今だったら、サンデルさんの本が読めるくらいの年になってから読むのがいいのでは?

幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進、はたして正義はどれ?

サンデル教授は、「幸福の最大化」、「自由の尊重」、「美徳の促進」という3つの価値観を提示しました。「幸福の最大化」と「自由の尊重」の2つだけでは、議論は単純な綱引きに終始してしまいます。そこで、美徳の促進という3つ目の軸を導入して、議論を多様化させる。こうやってずっと話し合いを続け、正義について考え続ける生き方こそ、彼の正義道です

https://cakes.mu/posts/2778

*1:サンクチュアリ」というマンガはそのあたり自覚的で素晴らしい