なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

「進撃の巨人」「アホリズム」「暗殺教室」「なろう作品群」など

◆なにも特別ではない平凡なひとのための物語
http://ch.nicovideo.jp/kawango/blomaga/ar316513

これはテンションあがる素晴らしい記事。
コミケ行ってから,インプットにかまけてまだオフ会のレポもコミケレポも書いてないけどこれは反応してしまう。



こういうマンガを読んでいるおそらくは若い人たちが、これらのマンガを読んで、どういうところに感情移入して共感しているのか、精神的なサプリメントとしての機能性について考えてみた

前にkawangoさんが書いたこの記事
http://kawango.hatenablog.com/entry/2013/01/10/114420

世の中にはだれかに話したい、叫びたい思いを抱えながら、現実世界では、ずっと黙って生きているひとがたくさんいる。そうひとの一部がネットで叫んでいる。5年前、ニコニコ動画が生まれたときの異様な熱気はそういうひとをポジティヴに救う場所がはじめてネットにできたからだろう。残念ながら、ニコ動以外でのほとんどのネットでは、そういった叫びはネガティヴな呪詛だ。

ちゃんと彼らの叫びを無視するわけでなく切り捨てるわけでなく真っ正面から向き合う人間の存在はなにか生きている実感は与えるのではないか

の続きとして読んだ。

*1


先に言っておくと、特にオチはないです。



これについて記事ではまず既存のマンガの精神的サプリメント的な機能性を取り上げる。

1 ひとつは平凡な毎日から脱却したいという非日常性への憧れ。
2 もうひとつは学校に象徴される自分たちをとりまく社会への不満からくる破壊衝動。
3 さらに彼女も含む自分の真の仲間への渇望。
4 そして眠っているはずの潜在能力や可能性を認めてほしいという自己承認要求。

確かに言う通りだろう。これらの要素にそれぞれ特化した作品をよく見かける。
進撃の巨人」についても、このあたりの文脈で語ってる記事もよく見かける。



でもこの記事では、それだけじゃない、「むしろコレジャナイ」という流れも出てきてるのだ、と言うことを語る.

暗殺教室アホリズムを読んで思ったのは、もう、子供達はそういう世の中の似たようなマンガに込められた大人の小賢しい計算なんて、とっくに見ぬいていて飽き飽きしているんだなということだ。


ではどういうものが求められているのかというと、
カギになるのはこのあたりの表現だろうか。

・シリアスなマンガに「アホリズム」なんて間抜けな名前をつけざるを得なかったのだろうし、「暗殺教室」という深刻なタイトルにはギャグマンガみたいな体裁をくっつけざるをえなかったのだ。そうでないと、もう感情移入できない*2


・真剣に自分と向き合ってくれるような人間関係に読者が飢えているからにほかならない。


これだけ読むと、矛盾したことを求めているような気がする。


①「学校」「友だち」「感情移入できるもの」という枠の外には出たくない
 *3
②それでいて、ガチで生きたい、真剣に取り組めるものが欲しい。真剣に向き合ってくれる人が欲しい。


普通自分がいる場所で②が満たされないなら①の枠を越えなければ行けないと考える。
なんとなく①と②は矛盾してるような気もする。
でも、たとえそれがフィクションであっても、その願望を可能にしてくれる世界や、設定、物語が求められてるのかもしれない。

というか、フィクションでしかもうそういう物語を求められなくなっているのかもしれない。


そして、そういう作品を、今では自分で作って、公開して、共有する事ができるのが
ニコニコ動画」とか「小説家になろう」みたいなサイトなのかな、と思ったりする。

*1:当時の反応はこちら http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20130111/1357870647

*2:そういえば、進撃の巨人も無理矢理なギャグでクールダウンをはかるシーンが多いなぁ

*3:自分たちの知ってる枠を越えて何かを学ぶことは出来ないし自分たちの知ってる枠を越えた世界を想像することも難しいっていうと言い過ぎか・・・