なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

今日マチ子「cocoon」読んだ



今日マチ子の「cocoon」読んだ。

ひめゆり学徒隊をイメージさせる設定。
看護兵として戦場に駆り出された女学生たちのうち、ひとりの女の子の主観を通して物語が展開する。冒頭で描かれる穏やかな日常は、あっという間に戦場の地獄に代わり、以降は悲惨な展開が続き、最終的には主人公以外みんな死ぬ。「自決を選んだ女学生の描写」がかなり胸に迫ってくるなど、作品内容もすごかったけれど、読んだ後の作者のあとがきが心に引っかかって何回か読み直してる。



作品中でなんども「繭」を破られ、
その度に「繭」を求め、「繭」を作り、
でもその「繭」はもろいからすぐに破られて・・・の繰り返し。 

成長し切るまで「繭」が自分を守ってくれない世界において
他の女学生たちは「古い繭」の中でそのまま死んだり
乱暴に「繭」を破ろうとして死んでいく。

「私が蚕だったらこんな世界には出てこないだろう。
 ずっと安全な繭(cocoon)の中にいるだろう。 
 空想の繭の中でゆっくりと死んでいくだろう。
 だけど……本当は---誰も死にたくなんてなかった」

「繭が壊れて私は羽化した。羽根があっても飛ぶことはできない。
 だから、生きていくことにした」

「砂糖で鉄は錆びるのか」という問いかけにおいて、
「砂糖」こそが鉄を乗り越えうる武器だと主張している点において、
「砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない」と対照的な感じで興味深い。

「想像の糸をはきだし、つむぎながら、繭をつくって自分を守り、
 やがて繭を破って飛べない翼を得ることをモチーフに」

というあたりは「true tears」の地べたを思いださせたりもする。




あとがきで気になるのが

「サンは少女らしい無自覚な自己中心さを発揮」
「これは、夢のなかでは、自分と、自分を見つめる視点は決して死ぬことがないからです」

という部分。 ここがよく理解できなかった。
なので、他の人の意見や作者のコメントなどをあさってみるなど。



感想1

http://t.co/Z16x5y5w8T

最大の特徴は、きわめて少女の主観的な視点で、できごとや場面での感情が淡々と描き続けられていること。

少女(約70年前)の素朴な思考や感覚で語られる世界は、とても当たり前の事として残酷な現実が描かれる。悪夢のような世界を読者は追体験する。さらりと読めるが、読んだ後で何とも言えぬ気持ちになる

うん。ケルテースの「運命ではなく」とか思い出す  http://t.co/Elwsn0DJt1
あといつもの病気で、こういう語りを読んでるとどうしても瀬戸口廉也を思い出してしまう。 
ブログの書き手の人は「EDEN(遠藤浩輝)」を思い出したらしいけどそれもわかる。 またEDEN読み返したくなってきた


感想2

http://t.co/LbDDqnsqyP

センネン画報で今日マチ子先生が描いていたのは、すぐに失われてしまう「一瞬のゆらめき」の叙述である
「一瞬のゆらめき」の明るさを描き出したのが「センネン画報」だとするならば、本書「cocoon」はその裏側

今日マチ子さんの作家性についての説明。ありがたい。

本書のタイトルは「cocoon」である。「繭」ではない。英語である。「あの戦争」を描いた作品でありながら、そのタイトルは「彼女たち」の言葉ではなくて「敵」の言葉として表現される。
「あの戦争」の少女たちを描いた作品でありながらも、その視点は現代の私たちに向けられている

今日マチ子「センネン画報」

http://juicyfruit.exblog.jp/   
今日マチ子さんのサイトがすごく良い感じだ。
というか、超有名なサイトだったのね・・・。今日まで全然知らんかった(恥

「自分では戦争漫画ではなくて過酷な状況下でエゴを貫く漫画のつもりだったのですが、そうでもないみたいです。」
「少女の求める美しさはおぞましさの上に成り立っている」「甘みが過剰になると苦みに代わる」

ふむー。やっぱり女性から見ると主人公の「エゴ」の話と受け取る人が多いのかな。 全然このあたり感じとれなかった私はやはり男なのかな。もう一回読みなおそう。まぁたしかに他の子に「お国のために頑張れ」って言ってたと思ったら数ページ後には「もう頑張れない、がんばりたくない」といってたりというシーンが結構多くて、マチの素早いフォローによる立ち直りがなかったら相当エゴむき出しの感じといえなくもないか。自然に受け止めてしまったけれども。なんにせよ、読んだ人同士でいろいろと語りたくなるお話でした。 

TL上で「cocoon」読んだよ!って人は是非是非コメントなどいただけると嬉しいです。






余談。

http://t.co/NnS6Ogo6OU
の例えで話がしたくなる。 過酷な状況において「繭」が必要な時もあるけど、退屈を嘆くくらいなら「繭」破ってみようよ、少なくともまず「繭」の中にいることに気付こうよ、みたいな。

穢翼のユースティアの聖女編のテーマでもあったけれど「仕方ない」が主張できるのは「仕方ない」状況にいる間だけかなぁ。

たとえば「親の躾が厳しかった」「学校でいじめられていた」「大学がFランだった」「ブラック企業で心を病んだ」「村で阻害され続けた」 その状況が進行中なら繭の中で自分を守るのもありだと思う。でも、その状況から抜けだしたままでも、いつまでも「繭」の中で閉じこもっているのは、やはりなにか違うのではないかと思う。