コンテンツ作者が語るコンテンツ論が一番おもしろい?
何かしら自分のブログについてポリシー語れる人は面白い人が多いよね。
まぁ、それが明らかに口だけで実行できてない人も見かけますが。
それでも、私みたいにポリシーそのものが特にない人よりは絶対にいい。
「読んでほしい読者のイメージ」が明確な人のほうがいい。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130625
・特集型のエントリは、長く一定の関心を集めてくれます。私は、「ブログは蓄積がすべて」だと考えているので、できる限り、「数年後に読んでもおもしろいエントリ」を書きたい。
・「次に世の中が○○について盛り上がる前に、なにかしら書いてストックしておくべきじゃない?」、「そうしておけば、その先に自分にとって、いい感じの局面がありそうだよね」
・私には「こういう人に、このブログを読んでほしい」という明確なターゲットイメージがあります。
・「見世物としての論争」、私はそういう場所における見世物のひとりになりたいとは、まったく思いません。
・日々の PVより、長期的にこのブログや、“Chikirinという書き手の価値”を高めることのほうが、よほど大事です。
・「誰に読まれたいのか」、これが私にとって、とても大事なことなのです。
・私は、「昔のほうがよかった」という人の意見は、なんであれ“ガン無視”することに決めてます。「昔のほうがよかった」と言ってる人と、「最近の若者はダメ」と言ってる人に、まともな人はいません。
わかる。でも、見世物としての論争を見て、何か語りたくなってしまう。
なぜ私は見世物としての論争に走ってしまうのか。
そのくらいわかり易くないと自分の意見が出せないからなんだろうな、と思う。
「敵」くらいわかりやすい対比関係があれば、サルでも自己主張ができる。
何も考えなくても「自分と違う」というだけで意見になる。・・・なるのか?
そういったわかりやすい対立構造がない所で自分の意見を出すには
いろんなこと考えないといけない。
知識も必要だろうけれどそれ以上に考え方の技術みたいなものが必要になるだろう。
まず自分なりの論点を立てるところからうんうん悩まないといけない。
私は、そういう訓練は全然出来てないことが、
今回アニメ作品の評論集というものに参加してよくわかった。
まず、こういう訓練をしっかりやらないと、それ以外のコンテンツについて
何も意見が言えない状態が続いちゃうかな、と思ったりする。
でも、楽しいけどね、他人のケンカ見たり、アホな人に突っ込むのって。
誰かの失言を鬼の首を取ったかのようにあげつらい、ツイッターでもっともらしい正論や正義感やらを振りかざして虚栄心を充たすという、そういうタイプの人
これはこれで、しばらくは必要なのかな、と思ったり。中毒です。
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar269595
・コンテンツの作者ほど、「コンテンツとは何か?」を真剣に考えている人はいない。彼らは、その人生のほとんどの時間を、コンテンツのことを考えるのに割いている。だから、コンテンツ論を取りあげれば面白いに決まっているのである。
・ぼくが今一番考えているのがブロマガのことである。寝ても覚めても「ブロマガをどう運営していくか?」ということについて考えている。ということは、ぼくが今一番書いて面白いのは、「ブロマガ論」ではないか?
・読者は、ほとんどの人が本とは違う読み方をする。
多くの読者は、ブロマガにコミュニティを求めている。同好の士が集まって、そこで楽しげな雰囲気を味わったり、刺激を受けたりする場を求めている。・強い想像力を持ったキャラを中心に据えた物語が、そんな本を読んでいる読者の想像力に影響を与えて、読者はもうひと回り大きい物語を追体験していく
わたしは小説を読むのがとても苦手だ。
そのくせ評論を読むのはすごい好きだ。
いろんな作品を見ている他者の目線・フィルタを通してものを見るのが楽しい。
他にも、社会学者の本とか心理学の本とかで、
ほとんど文学作品ガイドみたいに成ってるものがあるけれど、そういうのが好きだ。
ラノベも好きだ。
いろんな文学作品にあるような現役部分をラノベ作者が濾しとって
エンタメにしてくれたものなら読める。
だけど、オスカー・ワイルドの本とか自分で読もうとするとうんざりする。
文学で示されたようなエキスの部分を、
こういうのは、ショウペンハウエル的には自分で体験して自分で考えてないから
読めば読むほどバカになるって感じなのだろうけど、でも、面白いのだよなぁ。
コンテンツを生み出せる人は、自分の目線でものを見て考えてる人なのだろう。
コンテンツ論というのも、その人独自の目線を体系化・言語化したものだろう。