なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

学習について

魂-インターフェース-外界モデル

私達が外界から受けたメッセージを理解できるのは、外界からのメッセージを変換するインターフェイスがそもそも備わっているからである。ものの見え方や聞こえ方は、それまでに習得した経験に応じて変化するつまり、メッセージの変換のやり方が学習に寄って変化するということだ。つまり人格=魂+インターフェイスということである。

たとえばある芸術作品があるとしよう。その作品が「魂がこもっていない」と評される時、何を含意しているであろうか。それは、その作品が、作り手の本来の感覚に根ざして作られたものであるか、技術的な帳尻のみを合わせて作られた表面的なものであるかの違い。

(P116)インターフェイスの発達には情動と感情が必要。我々はメッセージを受け取った時、身体の情動反応を通じてコンテキストが創発される。その際に生じた、コンテキストに即したラベルが貼られることによって、はじめて意味が生じる。情動に基づいた意味付けとコンテキストに基づいたラベル付けが合わさってはじめて学習が行われたといえる。
もしラベルが足りなければ、情動に基づいたラベル付けが出来ないので精神的に成熟していくのは難しい。成熟のためには自分の情動に即したラベルを外界から手に入れる努力が必要である。

自分の感情に対して適切なラベル付を出来ない限り、感情はグズり続ける。自分の情動に即したラベル探しをする必要がある。

*1

人間が言葉を習得する時、まず内言語の蓄積が行われる。次に蓄積した内言語を実際に外言語として発話し、他者に意味が通じたかどうかを判断材料にしてフィードバックを行うことで、自分の内言語を修正していく。新しい勘定の意味を覚えて、世界観を変えることが、学習である。

(青  も乃絵も、この他者からのフィードバック受け入れが機能してない印象。上と合わせて考えると青  の場合、感情に即したラベルがないことは察しているのに、むりやり自分の手持ちのラベルで結論を出そうとする結果、チグハグなアウトプットが行われ、ソレに対する相手の反応からのフィードバックを拒否しているために学習がまったく進まないという状況なのだと理解できる。)

学習とは、

1 ある出来事に即して情動が生じ、
2 生じた感情を感情として捉え、
3 感情と出来事に適切なラベル付をする

という順序で成立している。

学習の結果、情動が拡張され、拡張された情動がさらなる学習の起点となる。
そういう形でループw形成しており、学習を繰り返す度にループはどんどん豊かになる。

*2








true tearsは石動乃絵をはじめ、登場人物がそれぞれの「真実の涙」を取り戻すお話である。

真実の涙はどういう時に流れるのか、作中では「心が震えた時」と表現されている。

別の言葉で言い換えるとそれぞれの登場人物は「己の魂を取り戻す」「心を感じれる状態を取り戻す」ことを目的としているということだ。それが成し得た時、それぞれが、それぞれの涙をながす。

しかし心が震えるとか己の魂を取り戻すと言われても今ひとつピンと来ない。
そこで、「ハラスメントは連鎖する」という作品から「魂-インターフェース-外界」というモデルを参照したい。

*1:青  のラノベ語りはこのラベルの圧倒的な不足が特徴で、適切なラベル付けに失敗している印象があるね。萌えなどの限られた単語と経験しかないと、「萌えかそうでないか」ということでしか語れない。こうなると、成熟のために必要なものがないから成熟も遅くなる、ということかな。

*2:このあたり、物語三昧界隈がこの学習モデルに忠実であるという印象を受ける。彼らはそれぞれ自分の感情が震えた作品を持ち寄って、その作品が発するメッセージを共有しあい、そレに対して、適切なラベル付をしていくことで、新しいものの見方を得ようとしている感がある。彼らの言動には傲慢な臭みがあってどないやねん、と思うことも少なくないが、学習のループ自体は魅力的。