なろう原作マンガの感想など

歴史漫画のまとめを作るはずだったのに、いつのまにかなろう原作マンガの感想ばっかりになってしまった

巴マミの病理=エミヤシロウの病理

彼女は魔法少女の真実に耐えられるほど強くない



大丈夫だもん
ひとりになったって私はやっていけるもの
たとえ仲間とうまくいかなくたって
今のやり方を変えるわけには行かないんだから。
だって、それが、皆のために戦うことが
家族の命を繋ぎ止められなかった、私の……


とはいえ、エミヤシロウと違って
巴マミはこわれきることができなかった。

違うの……全然大丈夫じゃないの。
強くないのに、完璧ぶって。
いつだって私は嘘ばっかり。
魔法少女を続けていたのだって、
大切な人を救えなかった罪滅ぼしのためなんかじゃなかったの。
本当の私は、正義の味方になりたかったわけじゃない。
誰かと一緒にいたかっただけなの。
意固地になって、強がる必要なんてなかったんだ
美樹さんはこんな私でも受け入れてくれるんだ。





私は気持ちが弱いから、あなたのようにはなれそうもない。
でもね、こんな弱い私でも、
美樹さんならきっと受け入れてくれると思うの。
だからあの子と一緒にいるって決めたの。
あなたになんか、邪魔はさせないわ。

美樹さやか

ねえ神様。

世界を救うだとかみんなの幸せを守るだとか
私はそんな神様の真似事をしたかったわけじゃないんだ。
ただあたしは目の前の家族と友達を救ってやれるような
そんな正義のヒーローみたいなやつになりたかっただけなんだ




反省会

互いの弱さを認めあってみんなで補い合えば
私たちにはもっと素敵な未来があったはずなの。

足手まといだから一緒にいたらいけないだとか
一人で格好良くならなくちゃとか
見せかけの強がりで幸せを逃しては駄目よ
そんな嘘は寂しいだけだから

いや、そうじゃなくて、誰一人「幸せになりたい」と思ってなかったから起きたよね。

みんな罰を受けたがってた。




佐倉杏子巴マミが戦うところまではとても良かった。その後の展開は意味不明。

・なぜ杏子は魔力不足にもかかわらずオクタビアと戦闘したのか。投げやりなマミを引き止めたのと矛盾する。
・ほむらとマミの会話シーン。杏子がマミに幻惑魔法を使ったとする意図が不明。一時的なハッタリ以上の効果がない。
・なぜマミは死んだのか。直前までの前向きな流れを覆すだけの決定的な理由に欠ける。
 また、マミの弱点を強調しすぎているきらいがある。

なにより、生きのびる事を祈りとして魔法少女になった設定をそのために無視している。

主に以上の理由から、この作品はプロットに欠陥があるといえます。 特によろしくない点は、キャラクターのある一側面を強調しフォーカスしすぎてしまった事です。 杏子はともかく、マミはサバイバル能力が高く、研究熱心な性格なのもあり、寂しがりで繊細な面はあったとしても、仲間に恵まれ、説得されたあの段階で自殺するのはやり過ぎであり、つじつまが合いません。

マミはなんで自殺したし?意味がわからない。



原作の佐倉杏子が好きなので、なんか納得いかない。

良い子ではあるけれど、「いい女」じゃなくなっちゃってるよね。

なんかマミさんありきの子になっちゃってる。

魔法少女まどかマギカDifferent Story

佐倉杏子は絶対に救われないのか


佐倉杏子の環境は救いようがない。親が救いようがなさすぎる。自己満足のために家族を犠牲にしてヒロイズムに寄っているような駄目親である。佐倉杏子は、自覚はなくとも「虐待」の被害者である。

しかしそれでも父親を愛していた佐倉杏子は、その虐待をしている自覚もない父親の生き方を魔法の力によって叶えようとした。そりゃ無理だって。

しかもこの父親、自分の力が評価されてなかったとわかった瞬間、佐倉杏子を逆恨みして、佐倉杏子を置いて家族皆で無理心中。無理心中した家族の中には判断能力のない佐倉杏子の妹もいた。最悪すぎる。


不幸の源は、父親そのものだった。父親そのものを変えない限り魔法ではどうしようもなかった。そしてそれは魔法で解決できることではなかった。狂信的な父親を、なんとかして説得して目を覚まさせない限りどう仕様もなかった。



だから佐倉杏子はなにも悪くない。

悪いのは父親であり、百歩譲ってもその幻想を台無しにした魔女だ。


佐倉杏子の病理=「他人の幸せを祈ってしまったこと」


でも、佐倉杏子はそこで自分を責める。

あたしは最初から自分のためだけの願いを叶えるべきだったんだよ。そうすれば傷つくのは自分だけで済んだんだ。

他人の都合もお構いなしに身勝手な幸せを押し付けたから、家族皆をあたしの不幸に巻き込んだんだ

ざまぁないよ。

願が消失し、魔法を使えなくなって、マミの足を引っ張るのが怖いから、マミから離れて自分一人で鍛える。

他人のために祈ったあたしがどうなったか知ってるくせに、よくも白々しくコンビなんて組めるもんだよな。

あたしのときみたいに裏切られてしまいえばいいのさ。

巴マミの病理=「自分の命だけを願ったこと」

もしたったひとつの願い事をやり直せるとしたら
迷わず家族の命をつなぎとめたいと、そう祈っただろう

それゆえに、他人を一生懸命助けようとする。


巴マミの病理2=「友達を救えなかったこと」

もう私一人の問題じゃないもんね。
今は鹿目さんと美樹さんがいてくれれば、、、私はそれでいい

だからこそ、一度仲間になった子は責任を持って全力で守るけれど、守りきれるかわからない子には臆病になってしまう。


巴マミの素顔

「いやだよ。帰りたくない。
 悪者になんかなりたくないんだ。
 あたしが最低な人間だってこと
 大切なひとに知られたくない。
 だからって、自分に都合のいい部分しか伝えないようなずるい自分にもなりたくなくて
 それでも結局どっちか選ばなくちゃいけないなら
 いっそあたし、逃げちゃおうかなって」


「いいたくないなら黙っていればいいじゃない。
 自分につごうのいいことだけしか伝えなくたって、ずるい子になったっていいじゃないの。

わたしだってずっとそうしてきたんだから。

美樹さんは私のことをどう思ってる?
もし正義のために戦う真面目な先輩だって思っているなら、それは私が騙してたの。
私はね、正義の味方でいたかったわけじゃない。
誰かと一緒にいたかっただけなの。
本当の私はただの寂しがりなのに
ずっと嫌われるのが怖くて、
あなたたちの前では真面目な先輩ぶって
いつもみんなにいい顔してた。
でもね、そんな嘘はもうやめるの。

お願い、美樹さん、
あなたのためでも他の誰かのためでもなくて
私のために一緒にいて。
あなたが自分を許すつもりがないのなら、
私だって正義の味方なんてやめてやる。
だから、私の前からいなくならないで」

「駄目だよ、そんなマミさん、
 あたしのあこがれのマミさんじゃないよ。
 あたしは正義の味方のマミさんが好きなんだ。
 だからこそマミさんの足手まといは絶対にいやだった。
 なのに、そんなこといわれちゃったらさ……

 ……いいの?
 あたしは悪い子だよ?
 それでもマミさんはいいって言うの?」

「当たり前じゃない。」

「…はは。まいったな。
 ここは厳しく言い返さなくちゃいけないところなのにな。
 嬉しいんだ。こんなあたしを必要としてくれて。」






さやかの病理=自分に自信がなさすぎるくせに潔癖症

他人を見捨てたこんなあたしでも一緒に組めるっていうなら、あたしマミさんのこと幻滅するかも

他人のことを気遣う余裕がない人間が他人のことを気遣うのは、もしかして傲慢なんだろうか……。

ぶっちゃけ、器じゃないのにマミさんに憧れてしまったのが間違い。そしてそのあこがれを勝手に押し付けるところもうざい。さやかほんとにうざい。

ようはあいつが特別ってだけの話なんだ。
絵に描いたヒーローみたいになれないからって自暴自棄に成るのはよしなよ。

街の病理

おそかれはやかれ、美樹さやかが最初に孵るのは
予測できたことさ。
魔法少女が複数点在する縄張りに
探索能力の劣る魔法少女を単独で放置すれば。
当然、利益が行き渡るはずもないからね。

どんなに大きな街であれ、魔女の数には限りがある。
にもかかわらず、君は使い魔を倒すスタンスを
改めようとはしなかった。

君だって、ことの重大さは十分理解していたはずだけどね?

訊くまでもなく理解しているんだろう?
美樹さやかを魔女にしたのは、君たちじゃないか。







まどか=一人だけ、願を最後まで保留させてもらえた

さやかちゃんが叶えた願いの重さに気づいて
叶える願も大事なんだって思ったんです。
漠然とした理由じゃなくて、確かな願を見つけようって

本編でもあったけれど、本当はさっさと魔女になってしまうことも多かった。

依存症は「快楽」が引き金になりやすい  強迫行為は不快感を避けることが引き金になりやすい

ヒステリーにかかるのは女性がほとんどであった。
語源もギリシャ語のヒステラ、つまり子宮である。女性病という認識が強く
もっといえば、性的欲求不満が原因というあまりにも無礼な診断がされていたこともある。

ヒステリーは20世紀に入ってからは急減していたが
1970年代から「あらたなヒステリー」が誕生した。=外傷性精神障害

<転換ヒステリー><解離性ヒステリー>


過食と嘔吐がセットになった食異常行為はブリミアという?



西欧では、個性尊重、自主性尊重の教育を行った60年台から80年台にかけて青少年の自殺率が3倍になった国もある

◆「みんななかよく」という価値基準はかえって引きこもりを増やす
仲良くできない人間は欠陥品だと思うようになってしまうから。
なにより、親がそれを判断できないから、そのことで褒めることが難しい。


<新学力観>導入により引きこもりが増大した。
「内申書」制度は本当にゴミそのものでありこれが子どもたちにとって非常なストレスを与える。
以前は受験ストレスが原因でむしろ家庭内暴力などを起こしていたが
今はむしろ私学の人間にはそういうことは少なく、内申書に縛られた公立高校で悲惨ないじめや自殺などが起きる。


今の時代「人に好かれない」人間は全人格を否定される。勉強を頑張っても褒められない


「ルール」から弾かれるのは対して苦ではないが、「人の主観」という曖昧な基準によって悪い人とされるのは、曖昧故に対処できない

客観的な基準がないと、周りのことを気にする人は殆ど息ができなくなる



男性は社会から要求される者が大きくなり、さらに女性からの要求も増えてきた、でもう社会から降りて引きこもる人が多くなった

うつ病で本当に厄介なのは「自動思考」である

日本の男性はあまり「男らしさ」を求められてこなかった。

男らしさを求めない代わりに暴力肯定社会を早々に捨ててきた。これはバイオレンスを捨てるという意味で良かったともいえる。


男女平等と「男らしさ」を求めることは、は両立しにくい

社会にでるまで男らしさをみがくよう言われてきたアメリカの男性は、社会に出てからその男らしさを社会で発揮することを封じられる。
→このことが家庭内暴力や幼児虐待に繋がったりするらしいのでかなり危険。
 軍隊にいくこともおおいが、除隊されたあとが大変。




合理化しやすいものほどはまりやすい

何か問題が起きた時、特に一人や二人ならともかく、複数の人間から批判が来た時に「合理化」するのはあまりおすすめしない



買い物依存症は日本の女性特有

アメリカの女性は、ブランド物で身を飾っても自分が偉くなった、とみなされることはない。


自分中心に考えるメランコ人間(うつ病)と、他人が自分の主人になってしまっているシゾフレ人間精神分裂病

好きか嫌いしかない人間はボーダーライン化していく。「良い悪い」という判断がどこかに無いと、評価が二極化する。

評価が二極化している人間は、自分も他人からそう見られていると感じてしまう。

だから嫌われることを極端に恐れる。

自分を嫌う人間は、嫌な奴なんだという切り捨てや合理化を過剰に行う。

部分的対応の考え方しかできなくなる。

正直これはかなりきつい。

◆ボーダーラインの研究

ラニー・クライン

カーンバーグ

ハーマン 


性的虐待についての日本と欧米での考え方の違い

https://www.minsya.jp/2016/02/25/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%85%90%E7%AB%A5%E8%99%90%E5%BE%85%E3%81%A8%E6%80%A7%E7%9A%84%E8%99%90%E5%BE%85/

欧米の考えは、加害者は親に限らず、だれでも児童に対してその優位的立場を駆使して危害を加えれば虐待行為と見なされる。つまり、虐待行為を親に特化しないことで、「広く社会の中における弱者」という地位を児童に与え、性的虐待を捉えることで、対策や救済の幅が日本より広がっているという見方もある。

◆アメリカでは、女性は男性の3倍ボーダーラインになりやすい
性的虐待の被害が多いから。 アメリカでは年間児童虐待の報告が「年間で」300万件もあるらしい。

そういう国の常識では、児童ポルノに対してどれほど過敏になるかわかる。

National Society for Prevention of Cruelty to Children (NSPCC)によると、2012~2013年の間に、16歳以下の子供が被害にあった性的事件は全部で1万8915件でした。13歳以下の女児に対するわいせつ行為は4,171件、13歳以下の男児に対するわいせつ行為は1,267件でした。イギリスでは4.8%にあたる20人に1人の子供が何らかの性的虐待を経験しており、虐待を経験した90%の子供は、知っている人から虐待されたと語っています。

アメリカ保健福祉省の2010年の報告によると、14歳から17歳までの若者の16%が同じ年に性的被害者になったと供述しました。また、「これまで性的被害者になった経験がありますか?」という質問には14歳から17歳までの若者の28%が「はい」と回答。
CACによると、女性の4人に1人、男性の6人に1人が18歳になるまでに性的被害者になる

日本は統計だと被害者は少ないようなのですが、
http://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h27honpen/b1_05_02.html


アンケートをとると偏ってるとは言え

アメリカに負けず劣らず性的被害が多い国なんでしょうね。

日本の場合は「被害を訴えない子供」が多いだけ、といえるかもしれません。

「部分対象関係」と「全体対象関係」

互助会についての印象だが、はてブ汚染云々は建前であって
「小学生くらいの対人関係の感覚を恥ずかしげもなく大声で喚いているから見苦しい」
というのが批判を集めやすい理由であろうと思う。



昨日取り上げたこの記事だが、これは完全に幼児の理論だ。
ttp://www.yuruiblog.com/entry/2017/08/05/120000

こういうことを言ってしまうのは、人間関係の捉え方が「部分対象関係」のままでとどまっているからではないだろうか。

母親がおっぱいをたくさん出してくれているときは、いいおっぱいだから母親もいい対象になる。いいおっぱいに対しているときは、無邪気に良い子となる。

ところが、おっぱいの出方が悪くなると途端に赤ん坊にとってはわるいおっぱいとなり、母親も悪い対象となる。こうなると赤ん坊はむずかって、悪い面を出してくるように成る。

こういうレベルだ。 自分を批判してくれるやつは「悪いおっぱいだ」くらい幼児じみた記事である。「文句をいうやつに限ってブログを書いない」という部分についてはただの後付であり、この部分は典型的な詭弁になっている。上の記事の本題は「文句をいうやつは悪いやつだ、つまらないやつだ」という部分対象関係的な認識にある。


対象関係論 - Wikipedia

子供が母親を部分対象として認知する時期の子供の心的構造は分裂・妄想ポジションと呼ばれている。
また子供が母親を全体対象として認知する自己の子供の心的構造は抑うつポジションと呼ばれている。

これは、人には良い面も悪い面もある、というアタリマエのことをまだ学習できていない子供の理屈である。
上の記事の人は、書いてる間に自分で書いてる内容がやばいと思えないのが何よりやばい。





ただ、ネットって、こういう「部分対象関係」の方がむしろあたり前、ってなることが多いよね。

リアルの付き合いなら全人格的な付き合いが必要だし、実際に嫌でもいい面も悪い面も目に入るからさすがに
上の記事を書いた人でも、有る人に対して全面的に悪い人だ、という判断はしないだろう。

でも、ネットって、本当によほど親しくない限り「一面」しか見せてもらえない。
逆に言えば、自分にとって「良い面」だけ見せて付き合ってくれる人を求めてもいいじゃないかって発想になることは珍しくない。


「ネットでまでめんどうくさい付き合いはしたくない。とにかく自分を褒めてくれる人しか付き合いたくない」っていう小学生の欲求をもってネットに臨むのも、自分がそういう小学生っぽいことを言ってるんだ、という自覚がある分においては問題ない。

おおっぴらにいったら馬鹿にされるけど、そういう願望を共有できる人との間でつつましくネットを楽しみたい、そのかわり誰にも迷惑かけ内容に気をつけよう、っていうふうに気を使ってネットをやってる人は何のとらぶるも起こさない。




でも、上の記事の人、絶対自覚なかったよね。
むしろ、露骨に互助会行為やって、たいして面白くもない記事をズルをしてみんなに見てもらおうってやったから批判されたにもかかわらず、逆ギレして、その小学生の欲求を、皆の前で恥ずかしげもなく誇っている。

これはちょっとさすがに幼稚過ぎるというお話ですね。



幼稚というだけなら良いのだけれど、こういう態度をずっと続けているとそれは境界性人格障害への入り口になってしまう。

「自分にとっても気持ち良い態度を取ってくれるかどうか」が他人を評価する基準で一番大事ってのは本当に小学生で卒業したほうがいい。

そういう小学生のレベルのままネットに入った人が、互助会に取り込まれたり、自分で互助会行為をやってしまう。

お前のブログつまらないよ、としか解釈できないのがやばい

ひとつ前の記事で言及したブログについたブコメ見たけど

 

お前のブログつまらないよ、という言葉を投げかけてるコメントは少なく

 

互助会行為の批判が主だった。

「なぜこんなに面白くないブログにたくさんブクマがつくのだろう」という系のブコメ

 

お前のブログつまらないよ、よりも「互助会やめろ」がメインであると読めるはずだが、

 

これについて「お前のブログつまらないよ」と読み取って、そちらに反論する。

 

これは意図的な話題そらしだとしても、本気で読み違いをしているのだとしても、どちらにしてもあまり救いようがないような気がする。

 

 

というかはてなブログってもう本当に進化が止まってしまったのだろうか。

 

青二才の劣化再生産みたいなのばっかりじゃないですか。。。

 

青二才さんは的外れなことを本気で、仲間がいない状態でも書くという面白さがあったけど、微妙に的外れなことを、仲間向けのアピールとして書くぬるすぎる連中ばかり、、、本当につまらない。。。

おれを批判するならブログ書いてからにしろよという詭弁について

http://www.yuruiblog.com/entry/2017/08/05/120000

 

あまり真面目に相手にする価値を感じないので簡潔に二点だけ言っておきます。

 

1つ目。批判してる人の90%はブログを書いていない、それは良いのですがブログを書いている10%の人の批判には耳を傾けるかがあるのでしょうか。

 

ないですよね?

 

批判してるやつはホニャララだ、と言いたいだけですよね。

 

2つ目。

あなた、ブログで書いても話聞きませんよね?

 

かつて青二才さんという人がいまして、文句があるなら増田じゃなくてブログでやれと吠えていらっしやいました。

 

なのでとある増田がブログを作ってブログで批判をしました。どうなったと思いますか?

 

 

そう、耳を貸さなかったのである。

 

結局耳を貸さないんですよ。

 

こういうことを言う人は、批判されるのが嫌なだけなんですよ。

 

 

で、わたしはその批判を相手にしたくない、とだけいえばいいのに、批判にも耳を傾けられる自分、というイメージを捨てたくないから。価値がないっていう結論を無理やり詭弁で捻くりだしてるだけなんですね。

 

 

当たり前ですが、そういう詭弁に気づかないほどはてなの人はアホではないということです。

 

 

批判なんか聞きたくない、というならそれでいいじゃないですか。なんで無駄に格好つけるのかな?かな?